(少し待ってて、いま追いつくから)



*****





「あの……付き合ってください!」


委員会の帰りにたまたま通りかかった薄暗い化学実験室で見た光景に、
一つ手前の階段を使わなかったことを後悔した。











「灰原さん」


呼びかければ必ず振り返ってくれる。
それは幼馴染の特権のようなものだ。それでなければ、自分のような平
凡な男が彼女と親しげに話すことなんてできなかっただろう。

「何?」

傾げられた首に倣うようにふわりと踊る赤茶色の髪は、上質の紅茶のよ
うに透き通っている。この髪に指を通すことを許されるのは一体どんな
男なのだろうと、ぼんやりと考える。

「今日、久しぶりにみんなで一緒に帰らないかって、歩美ちゃんが言っ
てたんですけどどうですか? 元太君も部活休みみたいなので」

『みんな』というのは、かつて小学生の頃少年探偵団としてつるんでい
たメンバーのことだ。
もっとも、そのリーダー的存在であった少年は6年前に姿を消してしま
ったが。

「ええ、いいわよ」

中学に上がった時に、少年探偵団は事実上解散となった。
小学校よりも人数の増えた新しい環境の中で、クラスが分かれそれぞれ
の部活に入ってしまえば、行動を共にする時間はどんどん少なくなって
いった。
放課後の過ごし方も、友人のタイプも、「違う」ものが増えていった。

それでもこうしてたまに息抜きのように集まっては、昔の思い出を温め
直していた。
主に、彼がいたころの思い出だ。


彼は突然3人の前に現れ、そして一年もしないうちに突然姿を消した。
「旅立つ」と彼は言っていた。

それがどこなのか、「家庭の事情」の一言を持ちだされてしまえば、子
供の自分が問いただすことはできなかった。


彼が行ってしまった時、紅茶色の髪の彼女も行ってしまうんじゃないか
と、密かに思った。
最後に小学校の校門でみんなで彼を見送った時、こっそり盗み見た彼女
の儚げな横顔を覚えている。
何か大切なものを失うような。
何か大切なことを覚悟するような。

このまま彼女までもが去ってしまったら。そう思うと怖くて動けなくて、
彼女から目を逸らすことができなかった。

二人は自分たちと同じように小学校の教室で出会ったはずなのに、自分
たちとは違う、何か強固な繋がりを感じさせた。

それが純粋な絆と呼べるものなのかそれとも何か別の感情もろもろが絡
み合っているのかは、いまだによくわからない。
あれから6年間、そのあたりのことについて彼女は一度も語ろうとしな
かった。

きっと自分が踏み込んでいい場所じゃないのだ。
彼女の中で、それはきっと聖域のようなものなのだろうから。


6年の間に、彼が寄こした手紙はたったの一通きりだった。

外国に行ってしまった彼にどうやって手紙を出そうかと思案していた頃
に、家に届いたのだ。
手紙には、これまでの友情への感謝と、突然去ることへの謝罪、そして
僕に少年探偵団を託す旨が書かれていた。


彼はヒーローのような少年だった。
まるで漫画かアニメから出てきたような、何でもできる少年。勇気があ
って、強くて、頭が良くて、優しい。
どんな危機的状況でも、彼が弱音を吐いたところを見たことがない。

彼に対する、怒りやら嫉妬やら懇願やらの激情に呑まれて叫び出したく
なったこともある。

どうしてそんなに完璧な男なのかと。
どうして自分たちを置いて行ってしまうのかと。
どうして頼ってくれないのかと。
どうして――彼女を置いて去ってしまうのかと。


成長するごとに、彼女は綺麗になっていく。
校内で知らない人はいないくらいで、クールビューティーとか高嶺の花
とか言われている。
彼女がもらうラブレターの数なんてそれこそ数えきれないし、告白され
ているところに遭遇するのも一度や二度じゃない。

けれど彼女が必ず断るのは、もしかしたら、まだ彼のことを―――


「円谷君」
「えっ?」
「どうしたの、ぼうっとして」

外国の血が混じっているという彼女の綺麗なグレーの瞳が、心配そうに
見つめてくる。
彼女がこんなふうに気にかける数少ない人間の一人でいられることに、
優越感を覚える。

「あの、灰原さん」
「何?」
「僕、えっと……」

躊躇う僕を、彼女はじっと待ってくれる。

「昨日、その……放課後に」
「……ああ。もしかして、見られてしまったのかしら」
「すみません……」

しゅんとなる僕に、彼女はクスリと笑った。

「いいのよ」
「あの。聞いていいかわからないんですが……」
「断ったわよ」

あっさりと言う彼女に、内心ほっと息を吐いた。

「あたり前でしょう。相手は話したこともない人だったのだから」
「そうですか……」

それじゃあ話したことのある――友達だったら、彼女は何と返すのだろ
う。

「……円谷君」
「はい?」
「明日の放課後、よかったらうちに寄らないかしら?」
「えっ」
「用事があるのなら、いいんだけど」
「い、いいい行きます行きます!」

勢いよく答えた僕に、彼女はまたクスリと笑った。



                   
               ***




「紅茶で良いかしら」
「あ、はい。ありがとうございます」

テーブルにティーセット一式と、甘い匂いのするクッキーの皿が置かれ
る。

「これね、お隣からの差し入れなの」
「あ、もしかして、快斗さんの手づくりですか?」
「ええ」

彼と似た雰囲気を持つ十歳年上の青年の、同居人。
まだ大学を卒業したばかりだというのにすでに有名なマジシャンで、阿
笠邸で開いた内輪のパーティーにも、憧れの名探偵と一緒に参加してく
れる気の良いお兄さん。

料理もお菓子作りも得意で、元少年探偵団も時々ご相伴に預かることが
あったからその美味しさは知っている。


隣家の2人がどういう関係なのか、正確なところはよく知らない。
仲の良い友人のようでもあれば、何かもっと深い、別なもののように見
えることもある。
それは少しだけ、6年前の彼と彼女の関係にも似ている気がした。

「円谷君、最近多いわね」
「――え?」
「そうやって、何か考えてること」

見抜かれていたのだと思うと、恥ずかしい。

「あ、いえ……大したことじゃないんです」
「歩美も、時々そういう顔をしてたわ。中学に上がったばかりの頃かし
らね」
「……歩美ちゃんが?」
「ええ。……江戸川君のことを思い出してる時にね」
「っ……」

彼女も、自分と同じような気持ちを持て余すことがあったのだろうか。

何も言えないでいると、灰原さんはカップを置き、思い出すように遠い
目をして語り出した。

「江戸川君は、私にとって……何て言ったらいいかしら。仲間であり、
共犯者であり、光であり、そして罪の象徴でもあった……。当時私は彼
に生かされていたようなものだし、また彼のために生きる義務があった
の」
「……好き、だったんですか」
「好き……そうね。でも、恋というのとは、ちょっと違う気がするわ」

彼女の言葉をすべて理解することは、今の僕にはまだ無理そうだった。
いずれ理解することを許されるのかもわからないけれど。

「でも私にとって、彼がすべてというわけではなかったのよ。そんなふ
うに彼を想っていたわけではないし、彼もそれを望んでいなかった。彼
が望んでいたのはむしろ、私に広い世界を与えることだったわ。広い世
界っていうのは、例えば、あなた」
「え? 僕?」
「ええ。あなたや歩美、小嶋君。学校に通って友達と平和な日々を過ご
すこと。博士の健康に気をつけて食事をつくること。隣のおバカな二人
の世話を焼くこと」

そう話す彼女は、とても優しい目をしていた。

いつからだろう。最初は冷たい、厳しく自制したような目をしていた彼
女が、こんなにも穏やかな目をするようになったのは。

「江戸川君は消えたわ。もうどこにもいないの」
「どこにも、って……」
「彼の影を探すのはやめなさい」

あまりにきっぱりとした物言いに、言葉に詰まる。

何となく、気づいていたのだ。
最後に別れを告げた時の彼の表情と、知らされない連絡先、一通しか届
かなかった手紙。
きっと二度と、彼に会うことはないのだろうと。

「その代わり。思い出話なら歓迎よ。お茶請けくらいにはなるでしょ」

クスリと笑ってみせた彼女に、僕も笑い返す。
やっと、胸の中がスッとした気がした。

「灰原さん」
「何?」
「僕、いつか絶対に、コナン君よりもいい男になってみせます」

だから、その時は―――。

その先の言葉は、「いつか」の時のために、胸の中にしまっておく。


「……楽しみにしてるわ」


そう言った彼女の綺麗な微笑みに見惚れていた僕は知らない。
彼女が心の中で、「もうとっくになってるわよ」なんて呟いていたこと
を。













after






選択式お題 ブルーメリー



光哀スキです。




2013/01/20