翌朝、比護と真田は待ち合わせ場所である大阪駅へ向かっていた。
昨日の新一に対する失礼な態度を咎められてから、二人の間には気まずい
空気が流れていた。いつもはよく喋る真田が沈黙を保っているのだから、
自然と静かになる。
一つため息を吐いてから、比護が口を開いた。
「貴大、どうしたんだ? 昨日からおかしいぞ」
「そないなことありまへん」
「貴大……工藤が、どうかしたのか?」
「っ……」
新一の名前を出した途端寄せられた眉に、比護は首を傾げた。
すると、真田がもごもごと何か呟く。
「何だって?」
「っ、だから! 俺、比護さんと遠藤さんが兄弟やったなんて知らなかっ
たっす」
「ああ、そう言えば言ってなかったな。まあ、公表してないし……」
「やったら、何で工藤がそのこと知っとったんですか」
「前に兄貴と一緒に工藤の試合見に行ったからだろ」
それがどうかしたのか、と真田に問うが、恋人はますます不機嫌になって
しまった。
今日の練習に一抹の不安を覚えた比護は、また一つ、そっとため息を吐い
た。
その時。
「……ん?」
数メートル先を歩く男性に、比護は眉をひそめた。
「……比護さん?」
様子の変わった比護に、真田が問いかける。
「おい、あの人……何かおかしくないか?」
「え? ……ただの酔っ払いやないですか?」
ふらふらと足下のおぼつかない、30代後半くらいの男。
一見、昨晩飲みすぎたサラリーマンの朝帰りの光景に見えなくもないが…
…比護は険しい表情で、男に近づいた。
「あの、大丈夫ですか? もしかしてどこか具合でも――」
「うっ……」
声をかけた途端、苦しそうな呻き声をあげて男が地面に崩れ落ちるように
倒れた。
「ちょっ、おい?!」
「比護さん?!」
慌てて駆け寄ってきた真田の大声に気づいて、周りの通行人が注目し始め
た。
「どうしたんですかっ」
「わからない! とにかく救急車を呼んでくれ!」
「は、はい!」
119のボタンを押す。生まれて初めての経験に、指先が少し震えた。
『消防ですか? 救急ですか?』
「き、救急や! 何や人が急に倒れて……はよ来てくれやっ」
聞こえてきた落ち着きはらった声に、真田は慌てて答える。
そして何が何だかわからないまま症状や場所を伝えていると、男を地面に
寝かせようとしていた比護が真田を呼んだ。
「貴大、大変だ!」
「えっ?」
「この人、腹に何か刺さってる!」
「ええっ?! 何やて?!」
見ると、確かに仰向けになった男の腹から細い金属が生えている。そして
その周りに、じっとりと赤い血が滲んでいた。
集まってきていたギャラリーから悲鳴が上がる。
通り魔だと思って逃げ始めた通行人もいて、とり囲む人数が少し減った。
「比護さん、どないしよ……」
「落ち着け貴大。とにかく、救急車が来るまでどうにか……」
弱気な声を出す真田を宥めるが、比護自身、こんな時どうしたらいいのか
わからずに内心慌てていた。
すると。
「ちょっと失礼! 通してください」
ざわめいていた人垣の中からでもよく通る、凛と透き通った声がした。
「比護さんに真田さん?! 何があったんですか」
人の波が割れ、現れたのは探偵・工藤新一とその後ろをついてきた灰原哀
だった。
「工藤!」
倒れている男を見た瞬間、新一と哀の表情が強張った。二人は急いで駆け
寄って地面に膝をついた。
「救急車は呼びましたか?」
「あ、ああ、たった今俺が……」
「ついでに警察にも連絡をお願いします。それでは、お二人はちょっと離
れてください」
「お、おい、何か手伝うことがあれば……」
不安げな比護と真田に、しかし、新一はにっこりと微笑んだ。この状況に
あまりに不釣り合いなそれに、二人は息を呑んだ。
「大丈夫ですよ。それより、救急車がきたらすぐに搬送できるように、こ
の人混みをどうにかしてもらえますか?」
「あ、ああ」
二人は立ち上がりかけたが、新一の傍に哀が残っていることに気がついて、
真田が声をかけた。
「おい、嬢ちゃんもこっちに――」
「素人は下がってなさい!」
幼い少女の鋭い一喝に気圧されて、言葉を呑みこむ。
新一が何も言わないので、二人は大人しく従った。
「工藤君」
「ああ。アイスピックで脇腹を一突きだ。傷自体はそんなに深くないし出
血も多くないな。内臓は行ってないと思うが……」
「そのようだわ。この分ならアイスピックはそのままで適当に止血して救
急車を待てば――いいえ、ちょっと待って!」
「灰原?」
アイスピックの生えた腹部ばかりに気を取られていたが、意識を失った男
の呼吸が極端に少ない。手首を取ると、脈拍も遅く、体温が低下していた。
「いけない! 何かの薬物を使われたみたいだわ!」
「薬物?! ……状況的に考えて、アイスピックに薬物が塗られていた可
能性が高いな」
「大した器具は持ち歩いてないから、ちゃんとした止血ができるかはわか
らないけど……アイスピックをこのまま体内に入れておくわけにもいかな
くなったわね」
「ああ……灰原、そっちは頼んでいいか」
「わかったわ」
頷き合うと、新一はすぐに人工呼吸を始めた。
そして哀は先刻と同じ鋭い声で、近くにいた真田を呼び寄せた。
「さっさと来なさい。あなたに手伝ってもらうわ。いい? 私が傷口を押
さえているから、あなたはそっとアイスピックを抜くの」
「なっ?! そないなことできるわけ――」
「真田さん! 今は灰原の指示に従ってください!」
怖気づく真田に、人工呼吸の合い間に新一が言った。その必死さに、おず
おずとアイスピックに手をかける。
「いい? ゆっくりよ」
哀が鞄から取り出したガーゼを強く押し当てる。緊迫した空気の中、息が
詰まる。
「抜、けへん」
「もっと力を込めて! 男がこんなことで震えてるんじゃないわよ」
何故自分がこんな年下の少女に叱咤されなくてはならないのか、疑問に思
う間もなくただ従った。
やがて救急車がやってきて、男は病院に搬送された。
やってきた救急隊員に新一と哀が状態を説明するのを、真田と比護は呆然
と見ていた。救急隊員は適切な止血の処置に驚いていたようだが、まさか
小さな少女の方が施したとは思っていないだろう。
そしてそのすぐ後に、警察がやってきた。
「工藤君?! 何で大阪におるんや?」
パトカーから降りてきたのは、予想はしていたが、大阪府警の大滝だった。
「ご無沙汰してます」
「平ちゃんなら今は和葉ちゃんと一緒に九州におるで」
「ええ、知ってます。今回は、昨日のビッグ大阪と東京スピリッツの試合
を観に来たんです。今日は、比護さんが自主練に交ぜてくださる予定で」
「工藤君、プロのサッカー選手と知り合いなんか?」
驚いたようすの大滝は、新一の背後に立つ二人の青年に気づいたようだっ
た。
「あ、ほんまや、比護選手……しかもそっちおるん、真田貴大やないか!
あの、国立競技場のエースストライカー!」
「大滝さん」
例の爆弾事件の話が出た途端、真田と比護の顔が強張ったのを、新一は見
逃さなかった。
「あん時は工藤君もえらいお手柄やったって聞いたで」
「大滝さん……」
自分のことのように嬉しそうに話す大滝を宥め、後ろの二人をちらりと見
る。二人は少し驚いたように新一を見ていた。
それはそうだろう、工藤新一が事件解決に関わったことは、機密扱いなの
だ。
「それで、現場の状況は……」
時折比護と真田に質問や確認をしながら、新一が状況を説明していく。
「つまり、一番最初の目撃者は比護さんと真田さんっちゅうわけですね」
大滝についてきた若手の刑事が確認する。
「はい」
「被害者に最初に近づいたんは比護さんですよね。何故近づいたんですか
ね」
「それは、彼がふらふらした足取りで歩いていたから、様子がおかしいと
思って声をかけたんです」
「ただの酔っ払いやとは思わんかったんですか」
比護の説明に、刑事は疑り深そうに質問を重ねた。
「いや、そんな感じじゃないと思って……」
「聞けば、あなたが近づいた途端、倒れたらしいやないですか」
「なんやとっ、比護さんのこと疑ってるんか!」
「落ち着け、貴大」
刑事に食ってかかりそうな真田を、比護が宥める。
「ついさっき鑑識から連絡があったんですがね、どうも即効性の薬物やっ
たみたいですわ。ということは、犯人は現場のすぐ傍におったっちゅうこ
とです。お二人が共犯なら、犯行も可能やろし」
「なっ……」
「今鑑識がアイスピックの指紋を調べとります。そこでお二人の指紋も、
取らせてもらいます。ええですよね」
「お前ふざけんなやっ、俺らが犯人なわけあるかい!」
「貴大!」
比護の制止を振り切って、真田が刑事に掴みかかろうと手を伸ばした。
しかしその手が届くより前に、真田の前に誰かが立ちはだかった。
「真田さん」
新一だった。
「そこどけや工藤っ」
「それはできません」
「何やて?!」
低い声でドスをきかせた真田だったが、新一はにこりと愛想のいい笑顔を
浮かべると、さっさと背を向けて刑事に向き直った。
「刑事さん」
「何や」
「もちろん、指紋は提出します」
「工藤?!」
「何故なら、応急処置に手を貸してくださった真田さんと、おそらく最初
にアイスピックに気がついた比護さんも、アイスピック――凶器に手を触
れているでしょうからね。ついでに、この少女の指紋も見つかると思いま
すよ」
哀の存在に今初めて気が付いたのか、刑事は驚いたように目線を下げた。
「誰や、この子は。子供を現場にいれるなんて――」
「ご心配なく。彼女は僕の主治医です。被害者の傷の応急処置は彼女がし
てくれたんです」
驚く刑事に対し、哀は冷めた表情で沈黙していた。
「さて、まずは容疑者を絞らなければなりませんね。男性の身元はわかっ
ているんですよね。まずは身辺でこのあたりに住んでいる、あるいは滞在
している人の中で――」
「おい、俺らはもう行ってええか? いつまでもこないなことにつき合う
てられへん」
大滝と話し始めた新一を余所に、真田が言う。
余計なことに巻き込まれたせいで、自主練の予定時間をだいぶすぎてしま
っている。
「何言うてるんですか。アンタらも一応容疑者なんやから――」
「まだそないなこと言うてんのか! 工藤からも言うたってや、俺たちや
ないって」
真田の言葉に、新一は困ったように笑った。
「大滝さん、彼らは身元もはっきりしてますし、これ以上ここに留めても
しかたがないかと思います。必要なら、後日事情聴取をするということで
……」
「そうやな。それじゃあすまんなあ、また後で警察から連絡がいくと思い
ますけど」
「はい……工藤、今日は夕方まで練習してるから、来れるようだったら来
いよ」
「ありがとうございます」
駅に向かって歩き出した比護と真田。
真田が少し振り返ると、手を顎に当て、凛とした立ち姿で推理する新一が
いた。
「あいつ、すごいな」
比護がぽつりと零した言葉に、真田はむっとした。
その様子に気がついて、比護が言う。
「何だよ、貴大。お前、あいつに助けられたんだぞ」
「は?」
真田が若い刑事に掴みかかろうとした時。
もし手を出していたら、問答無用で公務執行妨害で逮捕されていたはずだ。
些細なことでも、法に触れる行為はスポーツ選手にとって大変な仇になる。
だからこそ新一は咄嗟の判断で間に割って入ったのだろう。
「そやけどあいつ……俺らのこと、容疑者やないって、言わんかった」
「…………」
確かにそうだ。二人が被害者と面識もなければ、当然被害者を殺害する動
機もないことは新一自身、わかっていたのだろう。それでも、新一は二人
が犯人でないと明言しなかった。
けれど、その理由は、警察とのやり取りを見ていれば何となくわかった。
「あいつは探偵なんだ。それも日本警察の救世主と謳われるほどの。あい
つの一言の重みは、普通の人間のものとは比べものにならないんだろう」
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