ビジネスクラスの4列目の窓側の席。
幅広のアームレストに頬杖をつきながら、新一は眼下に広がる真っ暗な森を
何とはなしに見下ろしていた。

大学の長期休みに入った途端、たまには顔を見せにこいと言われてロスに向
かった。
しかし、今飛行機が飛んでいるのはカリフォルニア上空ではない。それどこ
ろか別の大陸――ヨーロッパ上空だ。
ロスの家では珍しくそこそこゆっくり過ごせたと思ったら、7日目に手渡さ
れたのは帰国用のチケットではなく。
半ば強制的に連れて行かれたのは遠いヨーロッパの地だった。
ドイツ、オーストリア、スイス、フランスと連れ回されて、一週間の予定が、
結局一ヶ月近くも日本を離れていた。
ロスで大人しかったから油断した。

エコノミーとは比較にならないほど豪華な機内食を食べた後、隣のアイル側
に座っていた外国人の女性がトイレに立った隙に、新一も反対のトイレへ行
った。新一が戻ってきた時、女性はまだいなかった。

ぐったりと疲れた身体をクッションのきいた背もたれに預ける。
機内で読むための本は持っているが、今はそんな気分ではなかった。ただぼ
んやりと、窓の外を眺める。


美しい満月がぽっかりと浮かんでいた。飛行機に乗っているから、普段月を
見上げる感覚とはまったく違う。まるで月と同じ高さにいるようだ。

月を見ると思い出す人がいる。

彼と出会ったのはずいぶん昔のような気がしているが、その実つい数年前の
ことだ。
あの頃は楽しかったな、と思い出すたびつい口元が綻ぶ。何しろ、色々な意
味で、一番遠慮のいらない相手だったのだ。そしてそこに少しの敬意が混じ
っていた。きっと向こうもそう感じていただろう。

そのうち組織との戦いが激化して彼の現場には行けなくなってしまって、す
べて終わった頃には彼もどこかへと姿を消していた。
積極的に調べることはしなかったが、引退したのだと、風の噂で聞いた。

結局別れを告げることすらできないままだったが、そんなもの必要なかった
のかもしれないとも思う。時には背中を預けたこともある仲だが、わざわざ
挨拶をしにいくような関係ではなかった。
偶然に身を任せる。それが自分たちらしいのかもしれない。

心の奥の奥にある寂しさに似たしこりのようなものには、気づかない方がい
い。あの頃の自分たちは、もうすでに思い出の一部として封印されているの
だから。


ふと、光る何かが視界に入って、視線を下げた。
黒い木々の中に流れる川の表面を舐めるように、光が尾を引いて一直線に走
っている。まるで光の魚が泳いでいるようだ。あるいは流れ星を見下ろすと
したらこんな感じなのかもしれない、と思った。

もちろん、それが魚でも流れ星でもないことはわかっている。月光が川面に
映っているのだ。
月が水面に映る光景は見たことがあるが、飛行機を追うように高速移動する
月の光は初めて見た。飛行機と月の角度が上手く合わないと、こうはっきり
とは見えないのだ。

その不思議な光の尾を、新一は食い入るように見つめた。窓の方に身を乗り
出すと、ガラスから冷気が伝わってくる。

幻想的な光景だった。
月の光が、まるで追いかけてくるようだ。

あの頃とは逆だな、とぼんやりと思った。
ひたすら、手の届かない月を地上から追いかけていたあの頃。
月の真似ごとをして空を飛んでみたこともあったが、すぐにそこが自分の領
域ではないことを悟った。自分にできるのは、彼が羽休めをするところに居
合わせることだけ。

それから数年経って、今は月が自分を追いかけている。それを食い入るよう
に見つめて目が離せなくなっている自分が滑稽でしかたなくて、新一は苦く
笑った。


「あ」

突然、光が大きく揺れた。
川が途切れ、光の洪水は湖に流れ込んだ。
波のない、鏡のような湖面に満月の姿が映し出される。ぼんやりとした光の
塊にすぎなかったものが、突如として明瞭な月の虚像になり替わる瞬間を、
新一は息を呑んで見つめた。

次の瞬間、光は消えた。

視線を上げれば、満月はまだちゃんとそこにある。ただ、窓からまっすぐ見
えていた先刻と違い、飛行機のだいぶ後ろの方に浮かんでいる。
地上に反射しているのがあれほどくっきりと見えるには、角度が重要だ。飛
行機は、月を置き去りにして飛んでいた。

「………ふぅ」

窓を覗き込んだまま、思わず溜息をもらした。
いつの間にか、肩に力が入っていた。



「月が綺麗ですね」


突然、背後から声がして、新一は驚いて振り返った。気配がしなかった。

振り返ったそこには、本来いるはずの外国人女性ではなく、日本人の青年が
座っていた。何となく面差しが新一に似ているが、新一が普段はしないよう
な、甘い笑みを浮かべていた。

「え、っと……」
「ああ、すみません。俺、こういう者です」

目の前に手を突き出されたかと思うと、手の中から現れたシルクの布をひら
りと揺らめかせ、次の瞬間にはスパークリングワインのボトルが現れた。機
内で提供しているミニボトルだ。

「マジシャン……」
「はい。よかったら一緒に」

今度はフルートグラスを二つ出現させて、流れるような所作でワインを注い
だ。グラスの中で美しく泡が踊る。

「俺、黒羽快斗っていいます」
「黒羽、快斗……」
「はい。それじゃあ、」

青年はグラスを目線の高さに上げた。つられて、新一も倣うようにグラスを
上げる。

「素敵な月夜に、乾杯」

チン、と触れあったグラスが涼やかな音を鳴らした。

「ここ2年ほどは海外で仕事してて。ヨーロッパではちょっとは名前が売れ
てるんですけどね。今度、日本での仕事がありまして」
「ああ、それで日本に……」
「帰省も兼ねてね」
「すごいですね。見た感じ、まだ若いようですけど」
「工藤さんと同い年ですよ」
「え、それなら敬語は……ってどうして俺のこと……」
「探偵の工藤新一さんでしょ? 有名人じゃん」
「まあ……」

途端に砕けた口調になった快斗は、クスッと笑った。
何だか落ち着かなくて、新一はできるだけ自然に目を逸らした。気を落ち着
かせようとワインを口に含む。

だって何故か、自分を見つめてくる彼の目が、何というかこう、甘いのだ。
そしてその甘ったるいマスクに隠れてはいるが、その奥に、熱が籠もってい
るような気がする。

「工藤君は何でフランスにいたの?」
「工藤でいい……ちょっと、親に連れ回されてな」
「へぇ。工藤のご両親ってあの工藤優作と藤峰有希子だろ? さすが、セレ
ブだなぁ」
「そうかぁ? ……んー、まあ、そうかもな」

思い返してみれば、自分の両親はいちいちやることが規格外だ。金銭的な意
味にしても。

「ところで、そこに座ってた女性は……」

隣の席には確かに金髪の外国人女性が座っていた。だいぶ前にトイレに立っ
てから戻っていないが。

「ああ、心配ないよ。席、換わってもらったんだ」
「え?」
「俺がどうしても、ここに座りたかったから」

そう言って微笑みかけられる。
さっきから思っていたことだが、気障なセリフを嫌みなくさらっと言うあた
り、相当の誑しだ。それを自分に発揮されても困るのだが。

「読書の邪魔しちゃったかな」
「え?」

快斗の視線を追うと、簡易テーブルの上に置きっぱなしになっていた本を見
ている。もともと読書する気分にはなれなくて、窓の外に気を取られている
間にすっかり忘れていた。

「いや、別に」
「読書好きなの?」
「まあ、わりと」
「へぇ。日本の近代文学とかも?」
「まあ、有名なのは一通り読んだけど」
「例えば、漱石とか」
「ああ、まあ、一応」

矢継ぎ早な質問は、快斗がワインを飲んだことで途切れた。
唇をつけてグラスを傾ける。気泡の浮くワインがその口の中に流れ込む。
たったそれだけの動作が目を惹きつける。

「久しぶりに日本に戻るんだ」

グラスに目を落として、快斗が呟くように言った。

「高校卒業してすぐ渡欧して。二年間、すべて忘れて我武者羅にマジックに
打ち込んだ」
「……黒羽って、あの黒羽盗一の……」
「息子だよ」

快斗が朗らかに言う。

「親父を越えるマジシャンになるのが俺の夢。いつかFISMでグランプリ優勝
して世界一のマジシャンになる」

夢を語る瞳は、それまでの印象とは一転して子供のように輝いていて、新一
は吸い込まれるようにその顔を見ていた。

新一が認めた世界一のマジシャンも、夢を語る時はいつもの余裕の笑みを引
っ込めてこんな少年のような顔をするのだろうか。

「本当は、日本に拠点を移すのはその夢を達成してからと思ってたんだけど」

快斗が新一を流し見る。

「その予定は変更になりそうだな」
「? そうなのか?」

だが、快斗は笑みを深めただけで答えなかった。

「――会いたい人がいたんだ」

また唐突に話が変わる。
だが、話が飛ぶ人にありがちなように、彼の頭の中では話が繋がっているの
かもしれない。
あるいは、ただ言いたいことを手当たりしだい吐き出しているだけかもしれ
ないが。

「向こうが俺のことどう思っているかはわからないけど。というか、怖くて
確かめられなかったんだけど。タイミングが合わなくてさ、いや、合ったか
らなのかな、ちゃんと話もできないまま会えなくなって、いつか俺が夢を叶
えたら、勇気を出して会いに行こうと思ってた。だけど」

快斗がつらつらと話す。口を挟める空気ではなくて、新一は黙っていた。

「こんな偶然ってあるのかな。いや、もう必然? 俺、神とか信じてないけ
ど、これはもう運命って言って良い気がする」

あくまでも坦々とした口調で話す快斗に、新一はもしやと思った。もしかし
てこの男、ものすごく興奮しているのではないだろうか。そして感情を抑え
ようとするあまり、無表情になっている。

「工藤、」

ずっと手元のグラスに落としていた視線をつと上げて、快斗は新一を見た。
目が合って、感情を読ませないその深い紫紺に吸い込まれそうになる。

突然、機内の明るさが落ちた。後方の列から順に電気が消されていく。

「工藤、眠いんじゃない?」
「え……あ………」

言われた瞬間、眠気が波のように襲ってきた。
探偵としてすぐに気づいた。盛られたのだと。

手の力が抜けて、落としそうになったグラスを快斗が苦もなく受け止める。

霞む視界に、紫紺の双眸が見えた。
だが、初対面の男に一服盛られたというのに、不思議と危機感はない。それ
どころか、奇妙な切なさが湧いてきた。

次に目を覚ました時には、この男はもういないのだろう。
そしてこの束の間の邂逅は、月が見せた夢になりさがるのだ。

手を伸ばそうとして、もう腕が上がらないことに気づく。
同じだ。あの時から何も変わっていない。
月には所詮、手は届かない――

「おやすみ、名探偵」

薄れゆく意識の端で、声が聞こえた気がした。



                 
                ***




「……で」

機内の電気がつき、朝食が配膳される。
ロールパンにオリーブオイルをつけて口に入れる隣の男を、新一はじろりと
見た。

「何でまだいんだよ」
「え? 何でって、席交換してもらったって言ったよな?」
「や、そういうことじゃなくて……」

きょとんとしてパンを咀嚼している快斗に、新一は深いため息を吐いた。
あんなふうに睡眠薬を盛られたら、寝ている間に姿を消していると思うに決
まっている。
あの時の切ない胸の痛みを返せ。

「じゃ何で盛ったんだよ」
「そりゃ工藤の可愛い寝顔を見るため」
「は」
「っていうのは半分冗談で、」
「半分かよ……」
「工藤、何か疲れてそうだったからさ」
「え……」
「最近ちゃんと眠れてなかったんじゃないかと思って」
「…………」

眠れてなかったのは本当だ。
身体に疲れが溜まっているというのに、意識がなかなか落ちてくれない。工
藤邸以外の慣れない場所ではいつもそうだ。繊細すぎるその体質は、組織と
の戦いから数年経った今でも治らない。

「だからってなぁ……」

睡眠薬で強制的に眠らせるのは、睡眠はとれても身体に負担もかかるのだ。
と思ったが、頭と身体がすっきりしていることに気づく。睡眠薬の副作用で
ありがちなだるさもない。それどころか、まるで自宅で眠ったかのような安
らぎすら感じる。

何でだ、と首を傾げた新一の思考に、快斗が割り込むように話しかけてきた。

「考えるのもいいけどちゃんと食えよ」

そう言う快斗はすでにデザートのヨーグルトを食べている。

「俺コーヒーだけで……」

言いかけた言葉に、快斗がすっと目を細めた。

「……ちゃんと食べます」

一瞬その場に漂った異様な緊張感に、新一は大人しくパンを手に取った。
何で俺、初対面の人にこんなに世話焼かれてるんだろう、と新一はぼんやり
と思った。




そうこうしているうちに飛行機は成田に到着した。
荷物を取りに自分の席へと一旦戻っていった快斗と入れ替わりに、外国人女
性が戻ってきた。
快斗に何を言われたのか知らないが、満面の笑みで新一を見て、「よかった
わね」と言ってきた。何が何だかわからないまま曖昧に頷いた。


ゲートの外に出たところで、二人は向き合った。

「じゃあ、ここまでだな」
「うん。おかげで楽しいフライトだったよ」
「まあ、悪くなかった」
「ハハ、光栄だな。じゃあね」
「ああ。じゃあな」

二人は別の方向に向かって歩き出した。

だが十メートルも行かないところで、新一の背に声が届いた。

「工藤! その……オメーと見る月は、すっげぇ綺麗だ!!」  

その声に、混み合っている空港の中、周りが快斗を振り返った。
だが肝心の新一は足を止めただけで、振り向くことはしなかった。ただ、応
えるように右手をひらひらと振り、再び歩き出す。

「……月はオメーだよ」

微かな笑みを唇に乗せて、新一はそう静かに呟いた。








新学期、東都大に学士入学で編入してきた天才マジシャンが新一の前に現れ
るのは、その一ヶ月後のこと。
















おまけ





リクエストくださった、いく様に捧げます。
リクエスト内容:快新で夏目漱石のI LOVE YOU(月が綺麗ですね)。

私も一度は書いてみたいと思っていたリク内容で気合い入れて書かせていた
だいたんですが、快新というよりK新の要素もちょっと強くなってしまった
り、全然甘くないしで、期待外れでしたら申し訳ないです……。

おまけで快斗視点もちょっと書きました。



2013/02/23