何気なく顔を上げて目に入ってきた人物に、心臓が止まった。










「あ、寺井ちゃん? ……そう、今空港。これから飛行機乗るから。……う
ん、準備の方はどう? ………ああ、それは俺がやるからいいよ。……うん、
じゃあよろしく」

ショーの準備で先に日本に帰国している寺井に電話をかける。

「……え? 迎え? いいよいいよ、タクシー拾うから」

プロとしてスポンサーと契約しデビューしてからも、寺井の過保護は変わら
ない。苦笑しながら、快斗は通話を切った。

カウンターの前の巨大な電光掲示板を見上げる。

シャルルドゴール国際空港発、成田行き。
久しぶりの日本だ。

高校を卒業するなりフランスに飛び、マジックの修業に明け暮れた。その二
年の間、一度も帰省していない。

高校最後の年に、パンドラを見つけた。
その少し前に組織は瓦解させていて、あとは石を見つけて砕くだけだった。
パンドラを粉々に砕いて、その粉を海に捨てた。
あっけなく潮風に攫われていったパンドラのなれの果てをぼんやりと見なが
ら、快斗は渦巻く感情に名前をつけられないまま、長くも短くも感じられた
怪盗の戦いに幕を下ろした。

マジックに打ち込んだのは、ぽっかりと空いた穴を埋めるためだったのかも
しれない。
過酷で孤独な戦いは、気づかぬ間に少なからず傷を残していったのだ。


プロ契約した時に、決めたことがある。
世界一のマジック大会で優勝する夢を叶えたら、日本に拠点を戻す。そして
ある人に会いに行く。

それは、戦いの最中で出会った強い人。
対立する立場にありながら敵というわけではない。守るべき仲間でもなくて、
だからこそ遠慮のない関係を当時は楽しんでいただけだが、今ならわかる。
彼の存在が、どれほど自分の支えになっていたのかが。

そして、その唯一の好敵手に認められてこそ、世界一のマジシャンを名乗れ
る。そんな気がしていた。

だからか、今回日本での仕事が舞い込んできた時、真っ先に思い浮かんだの
は彼のことだった。日本には、彼がいる。

すぐにでも会いに行きたい気持ちを抑えこんで、気を落ち着けた。



だから、機内でトイレに立った帰りに、前の方の列に座る彼を見かけた時は、
一体どんな運命の悪戯かと思ったものだ。
心臓が一瞬止まった気がして、次いでものすごい速さで鼓動を打ち始める。
頭に熱が集まって、ポーカーフェイスで動揺を隠しつつも、混乱は暫く続い
た。

何故、フランスからの飛行機に彼が乗っているのか。
旅行というのは考えにくい。彼の隣に座っていた女性は雰囲気からして他人
のようだったし。

混乱しつつも、身体は勝手に動いて自分の座席に戻り、回転の速い頭は意識
を置き去りにしてそこまで思考する。ぐるぐると考えている間も顔は無表情
だ。

しばらく自分の席で固まっていると、彼が座っている辺りで動きがあった。
隣の外国人女性が立ち上がって、前方の近い方のトイレに入っていく。
すると、彼も続くように席を立ち、後方のトイレへ向かったのが見えた。

「……よし」

勇気を振り絞るように小さく呟き、快斗は立ち上がった。前方のトイレへ向
かう。

鍵のかかったドアの前で順番を待つように佇んでいると、その間に彼が席に
戻ってきたのを視界の端で捉える。
それから程なくして目の前の扉が開いた。出てきた女性に、快斗は愛想の良
い笑顔を浮かべて話しかけた。

「ボンソワ、マドモアゼル。ちょっとご相談があるのですが、よろしいです
か?」

パッと掌を返して、薔薇を一輪出現させる。機内なのでさすがに造花だが。
それに目を輝かせた女性を、二つの通路を繋ぐスペースに誘導して、話をす
る体勢になった。

「あなたに、折り入ってお願いがあるのです。私と席を交換してはいただけ
ないでしょうか」
「え?」

女性が微かに眉を顰める。いきなりこんなことを言われたら不審がるのも無
理はない。

「実は、あなたの隣に座っている人とは知り合いなんです。いえ……知り合
いというのはあまりにそっけない。彼は、私の想い人なんです」
「まあ」

女性は驚いたように目を丸くしたが、そこに嫌悪はない。

「恋心を自覚したのは、不慮の出来事で彼と離れ離れになってから。碌な言
葉も交わせずに私たちの仲は引き裂かれ、次に会える日を待ち望みながらこ
の数年、生きてきました。そして今日、私たちはたまたま同じ飛行機に乗り
合わせた。これを運命と言わずして何と言うでしょう」

熱っぽく語る快斗の話に感情移入したのか、女性は何度も頷いている。

「今日彼に話しかけられたら、私は彼にプロポーズするつもりです。だから、
どうか、あなたの席を譲ってください……!」
「ええ、もちろんよ!」
「ありがとう……!」
「頑張ってね!」

励ましの言葉を告げて快斗の席に向かう女性を見送って、快斗は息を吐いた。
外国人はこういうドラマチックな話に弱い。多少大げさに脚色したが、嘘を
ついたつもりはない。
だって、本当に、この偶然を運命と言わずして何と言うのか。

「あ、すみません」

通りかかったキャビンアテンダントを呼び止める。

「シャンパンのミニボトルをもらえます? グラスは2つ」
「かしこまりました」

そうして快斗は、窓の外を一心に見つめる想い人にこっそり近寄り、譲って
もらった彼の隣の席に静かに腰を下ろした。
まったく気づく気配のない彼に、快斗は口を開いた。
最初の言葉は決まっている。


「月が綺麗ですね」




                ***




飛行機が着陸し、自分の席に荷物を取りに戻ったところで、席を換わってく
れた親切な女性とすれ違う。

「うまくいった?」

プロポーズのことだろう。興味深々に聞いてくる彼女に、快斗は満面の笑み
で親指を立てた。すると彼女は小さく歓声を上げて、「おめでとう!」と言
ってくれた。
騙している気がして少し罪悪感を覚えるが、この先真実にすればいいことだ。


夢を叶えてから会いに行くつもりだったが、気が変わった。
彼の前では、意地の延長のような決意なんて簡単に崩れ去る。

「これからちょっと忙しくなるな」

面倒くさい手続きは寺井に手伝ってもらうとして。
彼の荷物に一週間後のショーのチケットを滑り込ませておいた。その後の慌
ただしい日々を想像して、口元を綻ばせた。