ブラン氏に電話をした新一らは、銀行員たちが大まかな事情を聞いて50万
ユーロを自宅に運んできたことを聞いた。
指定された16時まで、あと2時間を切っている。
「ムッシュ・ブラン、ご自宅を出る前に、確認したいことがいくつかありま
す」
新一は、博士の運転する車から電話をかけている。隣では哀が、犯人の電話
の基地局周辺の地図を調べている。
新一には気になることがあった。
それは、いくら監視のためとは言え、犯人の潜伏先がブラン氏の自宅から目
と鼻の先だということ。監視するだけなら、他に方法はいくらでもある。
「例のバングルは自宅のどこかに保管されているんですよね」
『え、ええ』
「それでは、ルーヴルのバングルがレプリカで、本物は自宅にあると知って
いる人物はどれくらいいるんでしょう?」
『妻と、美術館の館長、副館長と、宝飾部の管理を任されている室長と、妻
の同僚でフランス王家の宝飾類の研究をしている学芸員が一人、ですね』
「なるほど。それでは、家の中のどこに保管されているか知っているのは、
誰ですか?」
「私と妻だけです」
「……本当に、それだけですか?」
『え?』
「例えば、息子さん、とか」
『え!』
そんなはずは、とブラン氏はうろたえたように言ったが、その声に微かな逡
巡を嗅ぎとって、新一は畳みかけるように言った。
「……奥さんに、すぐに確認の連絡を取ってもらえますか」
『はい……!』
だが、通話を切ろうとした新一を引きとめ、ブラン氏が不安そうな顔で恐る
恐る尋ねる。
『あの……バングルと息子の誘拐事件と、どう関係が……?』
「…………」
『あの、工藤さん?』
返事をしない新一に、ブラン氏が困惑したように声をかける。
「……ムッシュ・ブラン、これから言うことは、まだ可能性の域を出ません
が……」
***
もしかしてこの誘拐犯たちはあのバングルを狙っているのかと、快斗は考え
た。
しかし、それと誘拐とどう関係があるのか。
そもそもルーヴルのバングルはレプリカだから、盗まれたところで問題はな
い。だが、もし自分が何かを見落としているのだとしたら……。
今は圧倒的に情報が不足していて、しかも自分は小さい子供とともに捕えら
れているのだ。飛行機に乗ったから手持ちの煙幕弾は一つもない。使えそう
な武器は、解体して持ってきたトランプ銃くらいだ。
そんな中で子供を庇いながら、狭い室内で銃を持っている犯人たちを相手に
するのは、さすがの元怪盗と言えど至難の業だ。
だが、いつまでもこうして待っているわけにもいかない。
どうしたものかといくつか考えられる作戦を考えていると、ドアの向こうか
ら新しい声が聞こえてきた。
『……ここどこ?! あなたたち誰?』
怯えたような声が上がる。子供が目を覚ましたのだろう。
快斗はドアに耳をつけた。
『起きたか。俺たちはお前の母親の知り合いだ。お前を預かるように言われ
ている』
『……ほんとに?』
宥められて、わずかに子供の声が落ち着いたようだ。
今、誘拐犯2人の意識は完全に子供に向いている。快斗は音を立てないよう
にそっとドアを数センチあけ、様子を窺った。
「それで、ちょっと君に聞きたいことがあるのよ」
「なぁに?」
「君のうちに、大きな宝石のついたバングルがあるでしょう?」
なるほど、と快斗は腑に落ちた。
少なくともここにいる2人の犯人は子供と面識はない。そして、子供からバ
ングルの情報を聞き出そうとしている。ということは、この子供はバングル
の所有者の息子か何かだろう。
邪魔な快斗だけを別の部屋に転がしておいたことにも納得がいった。
「……でも、ママは誰にも言っちゃいけないって言ってたよ」
「大丈夫、私たちは君のママと一緒にお仕事をしているのよ。ルーヴルにあ
るのがレプリカだということは知ってるわ。教えてほしいのは、君の家のど
こに、バングルを隠しているか」
「……僕知らない」
男の方が舌うちする。子供が怯えたように後ずさろうとするのを、女の方が
引き止めた。
「あのバングルが、研究のためにすぐに必要になったの。君のママに頼まれ
て、取ってくるように言われたのよ」
「……僕本当に知らないもん!」
その時、痺れを切らした男が懐に手を差し込み、銃を取り出した。
「おい! さっさと吐かねぇと殺すぞガキ!」
「ひっ……!」
子供は悲鳴を上げて蹲った。
くしゃりと顔を歪め、声を上げて泣き始める。
「静かにしろ!」
だが、男の一喝に余計に激しく泣き声を上げた。
「――その辺にしとけよ」
突然その場に響いた声に、誘拐犯の男女、そして泣いていた子供までもが固
まった。
落ちた沈黙を切り裂くように、飛んできた何かが男の銃を弾き飛ばす。次い
で、腹部に衝撃を感じた女が床に崩れ落ちた。
「俺フェミニストなんだけどねぇ。子供いじめる女は別」
「なっ……」
突然の乱入に息を呑む男。
子供を庇うように立ちトランプ銃を構えた快斗は、その銃口をまっすぐに男
に向けた。
「てめぇ……!」
驚愕に目を見開く誘拐犯を無視して、快斗は泣きやんだ子供ににっこりと微
笑みかけた。
「ちょっと待っててな。今助けてやるから」
子供はきょとんとしたままぎこちなく頷いた。
「縄はどうした?」
それには答えずただにやりと笑んだ快斗に、男がすっと目を細める。
「……てめぇ、何もんだ?」
男が放つ殺気に、快斗は唇を吊り上げた。久しぶりの感覚だ。
「……だから。ただの観光客だよ」
次にセットしてあるカードには麻酔薬を塗ってある。掠らせるだけで、決着
はつく。
引き金に指をかけた快斗は、しかし、突如襲った激痛に身体を強張らせた。
緊張状態で忘れていた催眠ガスの名残の頭痛が、戻ってきたのだ。
「っ、」
銃身がぶれたのはほんの一瞬だった。
だが、狭い室内だ。その一瞬で一気に間合いを詰められ、男が快斗の手から
トランプ銃を蹴り飛ばした。
ホルスターから抜かれたもう一丁の銃を突きつけられる。
「面倒かけさせやがって。てめぇの処分はことが終わってからにするつもり
だったが、予定変更だ。ここで息の根止めてやる」
「……へぇ」
頭痛をポーカーフェイスで抑えこみながら、快斗が腰を落として構えると、
男は冷酷な笑みを浮かべた。
「言っとくが、避けたらてめぇの後ろのガキが死ぬだけだ」
「…………」
快斗は男を睨みつけた。
そもそもこの至近距離で弾を避けられるとは思っていない。が、急所を外す
くらいならいけるかもしれないと思っていた快斗は、男の言葉に動けなくな
った。ここで不用意に動いたら、子供に弾が当たるかもしれない。
隙のない男を前に、子供を連れて逃げることは不可能だ。おまけに、ぶり返
した断続的な頭痛が思考を鈍らせる。
(くそっ……)
男が勝ち誇ったようににやりと笑んで、引き金に指をかける。
(新一……)
唐突に脳裏に浮かんだ恋人の名を、快斗は心の中で呼んだ。
――だが、その引き金が引かれることはなかった。
「ぐぁっ」
突然、猛スピードで飛来した植木鉢が男の身体を吹き飛ばしたのだ。
男は壁に頭をぶつけてずるずると崩れ落ちた。
玄関を振り向かずとも、そこに誰がいるのかはわかっていた。
「間にあったか……」
聞き慣れた声が聞こえる。
部屋に入ってくるその足取りはゆっくりだが、額に汗が浮かんでいるのに快
斗は気づいた。
「……新一」
呟くようにその人の名を口にすると、新一は男の意識の有無を確認してから、
快斗を見た。
新一は無表情だ。だが、表情よりも雄弁なその目に浮かんだ心配と安堵に、
快斗は胸が詰まった。
「快斗……無事で、よかった」
「うん……」
数時間ぶりに見る恋人だが、もう何日も会っていなかったような気分だ。
近寄ってきた新一を、たまらず抱きしめようと腕を上げる。
だがそれが果たされる前に、もう一つの声が部屋に入ってきた。
「ちょっと、感動の再会は後にしてちょうだい。早くその子を連れて、ブラ
ンさんの家に戻るわよ」
半眼で言い放った哀に、2人は気まずげに離れたのだった。
2013/02/13
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