そのベルの音は、静まり返ったリビングに不吉に響いた。
「……出てください。犯人からかもしれません」
「は、はい」
ブラン氏は慌てて立ち上がり、受話器を取った。
「もしもし……」
『子供の命が惜しければ、今から言う通りにしろ』
新一は髪を耳にかけるような仕種に紛れて、あらかじめ受話器にとりつけて
おいた盗聴器の受信機、コードレスイヤホンを耳に入れた。
「ムッシュ・ブラン、できるだけ会話を引き延ばしてください」
「っ、エ、エミールは無事なのか?!」
『ああ。今のところはな。お前が黙って言う通りにすれば、無事に帰してや
る』
窓からは死角になるソファの背の陰に座り込んで、哀は2台のパソコンを操
作していた。
「……携帯からかけてるわね」
「基地局の特定を頼む」
「息子の声を、聞かせてくれ……!」
『……今は駄目だ』
「なっ、何故だ! 息子に何か――」
『寝ているだけだ。……いいか、息子を無事に返してほしかったら、50万
ユーロ用意しろ』
「ご、50万ユーロ……」
『金の受け取り場所はカフェ・ドゥ・ロゼ。場所は知っているな?』
「あ、ああ……」
『そこに16時だ。お前が来い。いいな? それから男どもと坊やは適当に
追い払え。こっちにはわかっているんだからな。後の指示はまた知らせる』
プッ。ツーツー………
通話が一方的に切られ、リビングに重苦しい沈黙が落ちた。
「エミール……」
「大丈夫ですよ」
「はい……」
「しかし、これで電話が盗聴されていないことはわかりましたね。犯人はあ
なたが探偵に依頼したことを知らなかった。そして監視しているのは、おそ
らく玄関」
「何故わかるんです?」
「犯人は僕たちがいることを知っていた。しかし、思い出してください、犯
人は僕たちのことを『男どもと坊や』と言ったんです。監視していることを
こちらに印象づけるためにわざと詳しく言ったんでしょうが、この部屋に入
る前に灰原はキャップを脱いでいる。今の彼女を見て、『坊や』だとは誰も
思いませんよ」
ブラン氏は改めて哀を見て、確かにと頷いた。
最初に玄関で会った時は、ボーイッシュな服装とキャップにしまわれた髪の
せいで少年かとも思ったが、キャップを脱いで艶やかな茶髪を肩に流した今
なら、はっきりと少女だとわかる。それもかなりの美少女だ。
「……灰原」
「基地局の特定はできたわ。ここからそう遠くないわよ」
「方角的にもやっぱり監視しているのは玄関側で間違いなさそうだ……玄関
は確か北向きだったな……ムッシュ・ブラン、最初の電話の時も、今の人物
と同じでしたか?」
「声は変えていてあまりわかりませんが……おそらく。話し方が似ているの
で」
ブラン氏の答えに、新一は頷いた。
「最初の電話の時、すでにこの家を監視しながら電話をかけていたとしたら、
時間的に誘拐の実行犯と電話をかけてきた人物は別だということでしょう。
……さて」
ソファに戻ったブラン氏に、新一は注意深く言った。
「ムッシュ・ブラン。身代金については、一応用意した方がいいかと思いま
す。約束の時間までに、用意できますか?」
「ええ……銀行に相談すれば、何とか……」
要求された50万ユーロは、日本円にして大よそ5000万円。
一般庶民に簡単に用意できる額ではないが、資産家のブラン氏にとっては指
定時間までに用意できる額。
誘拐で身代金を要求する場合、事件発生から金の受け渡しまでできるだけ時
間をかけたくないというのが普通の犯人と被害者に共通する心理だ。だから
数時間たらずで用意できる額を要求してくるのは何ら不自然ではない。
だが、新一は何故か、その額にむしろ違和感を抱いていた。けれどそれが何
かはわからない。
「……とりあえず、お金の準備をお願いします。僕たちはこれから、息子さ
んが誘拐されたと思われる場所を調べてみます。その間、あなたはできるだ
け家を出ない方がいいのですが……」
そうして、ブラン氏が銀行に電話して事情を説明し、大金を持ってきてもら
う手筈を整えている間、新一は博士と哀と共にエミールの通う学校へと向か
った。
車の中で思考に沈む新一に、博士が小声で話しかける。
「新一、本当に警察へ連絡しなくてよかったんじゃろうか。パリ警察にこっ
そり協力してもらったほうが……」
「今はまだ駄目だ。……灰原、基地局のカバー範囲はどれくらいだった?」
「せいぜい半径400メートルってところね。柱タイプでよかったわ」
しかし、人一人を探そうとするなら、半径400メートルは決して狭い範囲
ではない。
その中でこの家の様子が見える範囲、さらに障害物も考えて高さも限定する
ことはできる。だが、そうして絞った範囲の中にも数軒は残るだろう。
「地図だけじゃわかんねぇな……となると」
哀のパソコンを覗き込んでいた新一は顔を上げた。
「まずは現場検証、だな」
ブラン氏の話では、エミールは毎朝、ブラン夫人が仕事へ行くついでに車で
学校へ送っているという。だが夫人が一昨日からニューヨークへ出張中のた
め、その間だけタクシーを呼んだらしい。今朝もそうだった。
「なぜ自分で送らなかったのかしら。ブランさんは自宅で仕事しているんで
しょう?」
「締め切りが近いからここのところほとんど家を出ていないそうだ」
まあ、今はそれどころじゃなくなったけどな、と新一が付け足す。
ブラン氏はパリでは売れっ子の小説家だ。優作ともその関係で知り合ったら
しい。
締め切りの恐ろしさは父の仕事ぶりを見て知っていたから、同情こそすれ、
責めようという気にはならなかった。
エミールは、学校の近くに住んでいて徒歩で通っている友達と合流して一緒
に通うのが習慣となっていて、きっと今朝もいつものところで降ろしてもら
ったのだろうと思われた。
しかし合流するはずだったクラスメイトの家に電話すると、今日に限ってエ
ミールは現れなかったという。
「ブランさんによれば、エミール君がいつも降ろしてもらうのはこのあたり
――ちょうどこのパン屋の前だ。待ち合わせはほんの数十メートル先の横断
歩道の手前。大抵エミール君の方が先にきて友達を待っているらしい」
「たった数分の間、数十メートルの間に、連れ去られたということじゃな…
…」
「ちょっと狭い通りだけれど、人気がないわけじゃないわよね……店の人が
何か見ていないかしら」
哀の提案で新一らはパン屋の店主に質問してみたのだが、何せ朝はパン屋が
一番忙しい時間帯だ、店主は小さな男の子が毎朝店の前で車を降りることす
ら知らなかった。
「小学校低学年くらいの子供だったら、薬で眠らせておぶってしまえばそれ
ほど不審にも見えないしな……」
そう言って新一はその数十メートルの道を辿る。
数メートル歩いたところで、新一はぴたっと足を止めた。
「ちょっと何よ、急に止まったりして……」
すぐ後ろを歩いていた哀がぶつかりそうになって文句を言う。
だが、新一は別のことに気を取られているようだった。
「この道……」
「え? あら、気づかなかったわ」
「……道がカーブしてるんだ。だからさっきの位置からじゃ横道があるふう
に見えなかった」
おまけにその道に軒を連ねる店はどれも似たような外観をしていて、一見店
がずっと繋がっているように見えたのだ。
「車一台なら何とかいけるな……誘拐犯はここに潜んでいて、エミール君を
待ち伏せしていたのかもしれない」
新一が幾分緊張した面持ちで横道に足を踏み入れる。日は高いというのに、
どこか薄暗い雰囲気の道だった。
その時、不意にどこからか日本語が聞こえてきて、新一は振り返った。
表の通りを2人組の若いアジア人女性が歩いていく。手には美術館のギフト
ショップのロゴの入った土産物袋を持っている。日本からの観光客だろう。
「……そういえばここ、ルーヴルに近いのね」
同じように日本語に反応して振り返った哀がぽつりと言う。
――ルーヴル。
その名を聞いて、新一の頭の中に昨夜喧嘩した恋人の顔が浮かんだ。
バングルのダイヤモンドが偽物だったことを自分に告げなかった恋人。
もしかして今朝早くに出掛けた用事というのは、そのことを調べるためだっ
たんだろうか。だとしたら、快斗も今朝、この付近に来たかもしれない。
(どこにいるんだよ、快斗………)
ホテルに置いていかれたと知った時のショックが蘇ってきそうで、新一は慌
てて頭を振ってその感情を追い出した。
今は事件に集中しなければ。
「………ん?」
路地に足を踏み入れようとしたところで、新一の目が何かを捉えた。
石畳の上に落ちている、小さな飾りのついたそれは―――
「……ストラップ………」
小さなエッフェル塔のストラップだった。
「可愛いわね」
哀が拾い上げて、目の高さに掲げる。
「あら、エッフェル塔と一緒に四葉のクローバーのチャームがついてるのね」
「……それ」
パリの街を散策中に、偶然見つけた小さな店。
(見て見て新一! エッフェル塔とクローバー! 俺にぴったりじゃね?!)
(あーはいはい)
(もう、適当なんだから……新一もおそろいで買わない?)
(俺はいいよ……エッフェル塔よりビッグベン派だしな)
(えー。エッフェル塔の方がシルエットがわかりやすいから、ストラップに
合うと思うよ)
(ビッグベンだって、あの技巧の凝らされたゴシック建築と時計がなあ!)
(はいはい)
むきになって力説し出した新一に、くすくすと笑った快斗。
「快斗のだ………」
呆然と呟いた新一に、哀と博士は驚愕に目を見開いたのだった。
これ書いた時は円高だったのです……。
2013/02/10
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