翌朝、遅めの朝食をとりに新一は一人ホテルのレストランへと向かうと、す
でにビュッフェの朝食をとり始めていた他のメンバーに合流した。だが、そ
の中に快斗の姿はない。

「あら、黒羽君とは一緒じゃないの?」

哀が少し意地悪な目をして新一に問いかける。新一は気まずげに首を振った。

「部屋にいなくて……寺井さん、快斗の奴どこ行ったか知りませんか?」
「快斗坊ちゃまは、用事があるとかで出ておられます」
「え……」

ホテルに取り残されたという事実が、予想以上に衝撃を与えた。

「喧嘩でもしたのかい?」

優作がどこか面白そうに言った。

「んもう、駄目じゃない新ちゃん。せっかくの婚前旅行なのに」
「どうせ快斗が無神経なこと言ったのよ。新一君、良かったら今日は私たち
と観光しないかしら?」

千影の申し出に、新一は苦笑して断った。

「いえ、お気持ちはありがたいですが……」

すると、優作が言った。

「新一。ついさっきね、知人から依頼があったんだ」
「依頼?」

このパリで? と訝しむが、ICPOにコネもある優作にフランス滞在中に依頼
があることは、珍しくないのかもしれない。

「それが実は、昨日会ってきたばかりの人なんだがね。何でも今朝方、お子
さんが誘拐されたそうなんだ」
「誘拐?!」

何呑気に朝食なんか食べているんだと諌めようとした新一だが、不意に優作
の目に浮かぶ鋭い光を見つけて押し黙る。
きっとその何でもない表情の裏では、目まぐるしく情報が飛び交い、思考し
ているのだ。

優作はコーヒーを一口啜ると、静かに言った。

「それでこの事件を、お前に任せようと思う」
「まあ、俺は探偵だから……けど……」

知人から直々に頼まれた事件を、息子だからと言って他人に丸投げしていい
のか。そう問いたい新一の心を読んで、優作は続ける。

「大丈夫だ。お前ならあの子を救える」
「父さん……」

だが、そもそも新一をこの旅行中事件から遠ざけようとしていたのは優作な
のだ。
大体それが原因で快斗と喧嘩してしまったというのに、一体何故今更、自ら
息子を事件に関わらせようとするのか……。

「それに、私は今日有希子と黒羽夫人をエスコートするという大切な義務が
あるからね」
「……父さん」

まさかそっちが本音かと一瞬疑った新一だが、いくらふざけた父親でも誘拐
事件を前にそれはないだろうと思いなおす。

「詳しい話は部屋でしよう」






朝食もそこそこに、優作と新一、それから哀と博士は新一の部屋に集まった。
急かす新一に、優作は落ちついた面持ちで話し始めた。

「知人――ムッシュ・ブランの息子は、パリの学校に通わせている小学2年
生の男の子だそうだ。どうやら今朝登校する時に攫われたようだ」
「犯人からコンタクトはあったのか?」
「ああ。時間的に誘拐されてすぐだろうね、ブラン氏の自宅に電話があった
そうだ。息子は預かったとね」
「要求は?」
「それはまだだ。追って連絡すると言われたらしい。警察には届けるなと言
われて、ちょうどパリにいた私に助けを求めてきたというわけだ。警察がく
ればすぐにわかると犯人は脅したそうだから、どこからか様子を見ているの
かもしれないね」

少ない情報を整理する。
ブラン氏宅はパリの中心街から数十分の高級住宅街にある邸宅だ。そこに、
ブラン夫妻と誘拐された一人息子のエミールが住んでいる。

人目のある街中で子供を誘拐する手際の良さからしてかなり計画的な犯行で
あることは間違いない。
目的はまだ確信できないが、おそらく身代金だろうか。
警察への連絡を危惧して様子を見ているのなら、どこか自宅を監視できる場
所に潜んでいるか、あるいは内通者がいるのかもしれない。

「これがブラン氏の番号と住所だ」

優作からメモを受け取って、新一は立ち上がった。

「博士、灰原。頼む」




                ***





新一が起きだしてくる頃。

快斗は再びルーブル美術館に来ていた。

「やっぱりな。あの宝石はレプリカだ……」

外からのアクセスでは得られる情報に限りがあったため、美術館のセキュリ
ティールームに忍び込んで内部からハッキングしたのだ。

その結果わかったのが、バングルはオーナーによってレプリカに取り換えら
れていたということ。
展示されていた宝石がレプリカだったこと自体に事件性があるわけではない
ので、快斗としては少々拍子抜けしたが、この情報は機密扱いで、関係者で
も知る人間は限られていた。


ルーブルを出てホテルへの道を歩いていると、快斗はふと、微かな違和感を
覚えて立ち止まった。たった今何かが視界の隅に入ったような気がして、数
歩下がる。

(……何だ?)

何気なく通り過ぎた、車一台がやっと通れるほどの細い路地は、午前中だと
いうのに両脇の建物の陰になって薄暗かった。

周りをちらりと見回してから、路地をそっと覗いてみると。

窓ガラスがスモークになった黒いワゴン車が停まっており、その横に立つ男
が何かを後部座席に押し込んでいた。

その時、一瞬見えたものに快斗はハッとする。

(子供の足……誘拐か?!)

次に取るべき行動を咄嗟に考える。とりあえず、あのワゴン車に発信機をつ
けて………

だが、突然感じた背後からの気配に、快斗は反射的にさっと飛び退いた。
必然的に、覗きこんでいた細い路地に入り込むことになる。

振り返ったそこには、サングラスとマスクをかけた長身の男が威圧的に快斗
を見下ろしていた。

「誰だてめぇ」

ドスの利いた声で問われ、その声に顔を上げたワゴン車脇にいた男も快斗に
気づいた。

「……ただの観光客だよ」

にやりと笑って、流暢なフランス語で答えてやる。

さて、どうするか。一番手っ取り早いのは、ここで二人の男を伸して子供を
助け出すことだ。問題は、胸元に銃を隠し持っている目の前の男が発砲する
前に、決着をつけること。スピードで負ける気はしないが、タイミングを計
って………

「っ?!」

突然、背後から香った微かな薬品の匂いに、快斗は身体を強張らせた。

(催眠ガス……?!)

「くっ……」

ある程度の薬品やガスには耐性があるが、快斗を包み込むように広がりつつ
あるガスに、身体の動きが鈍くなるのを感じた。じわりと、眠気も襲ってく
る。
そして目の前には、すでに銃を構えた相手がいる。

ガクッと膝を地につくと、男の手が伸びてきた。意識はまだあるが、腕は思
うように上がらない。

男に乱暴に抱えられ(というより半分引き摺られ)、ワゴン車の後部座席に
放り投げるように乗せられる。手足を縛られ、目隠しをされ、やがて車が動
き出すと、暗闇と振動の中で、さらにじわじわと眠気が押し寄せる。抗って
いたガスの効果のせいでもあるが、昨夜調べ物をしていたせいでほとんど眠
れなかった寝不足も祟った。

(新一……)

昨夜喧嘩して怒らせてしまった恋人の顔が浮かぶ。


そして眠気の波に浸食されるように、快斗の意識は薄れていった。


























2013/02/06