「あああ〜、どうしよう俺……」

目の前のソファでクッションに顔を埋めて項垂れている快斗を、哀は
半眼で見やった。

この日は彼の心の治療のために、少しずつ話を聞くのが目的だ。こう
して哀の診察を受けるのはまだ二回目ということもあって、リラック
スしてもらうためにリビングでお茶をしながら話を聞いているのだが。

「あなたね……自分がここに何しに来ているのか、自覚はあるのかし
ら?」
「え? だから、治療(相談)でしょ?」
「あなたを見ていると、相談(恋愛)にしか聞こえないんだけど?」

そもそも、彼はいつからこんなに哀に対してフランクになったのだろ
う。

「私の認識が正しければ、今はあなたの睡眠障害についての話をして
いたのだったわよね?」
「そうそう。寝ると悪い夢を見るから全然寝られなくて、寝てもすぐ
に目が覚めちゃって。そのせいで寝不足だから意識が朦朧としてて、
あ、駄目だって土手で倒れた時、何でかぐっすり眠れたんだ。新一の
気配が隣にあったからだって、その後わかったんだけど」
「つまり、工藤君の気配があると、安心できるってことかしら」
「たぶんそうだと思う」

そしてそれがきっかけで、新一に家にこないかと誘われたのだと言う。

「でも、工藤君の家に来てからもたまに魘されていたんでしょう?」

すると、快斗は何とも言えない表情で気まずげに言った。

「それはだからその、部屋は別々だから……部屋では独りだし……」
「時々悪夢を見ていたのね」
「そう。それで前に魘されて、新一が起こしに来た時に……つい、キ
スしちゃって……ああー! いきなりだったし、絶対嫌われた!って
思ったんだけど、新一何も言わないし! 何? どういうこと? 都
合よく解釈しちゃうよもう!」
「落ち着きなさい」

再びクッションに顔を埋めてしまった快斗にぴしゃりと言う。何だこ
の悩みのなさそうなテンションは。

だが、哀はふと重要なことに気づいた。

「あなた、工藤君には触れられるのね?」
「え? ああ、うん」

それが何?とでも言うように首を傾げる快斗に、哀は指摘した。

「だってあなた、対人恐怖症なんでしょう」

それも親しい人間を傷つけてしまうのではないかという、加害恐怖が
原因の。
さすがに自覚はあるようで、快斗はそうそう、と頷いた。

「何か駄目なんだよね……頭ではみんな大切な人だってわかってるの
に、暴走してみんなを傷つけるんじゃないかっていう想像が湧いてく
るんだよ。いきなり飛びかかって、殴りつけて首を絞めようとするん
じゃないかって思うと、手を押さえつけないと怖くてしかたがない。
本当は、みんな俺が守らなくちゃいけないのに」
「でも工藤君は平気なのね」
「そういえばそうだ……たぶん、新一は強いからじゃないかな。俺な
んかが守らなくてもあいつは大丈夫だし、俺が簡単に傷つけられる相
手でもないし」

何たって俺の好敵手、名探偵だから。

(強い、ね……)

キラキラした目で新一の話をする快斗を、哀は複雑な心境で見ていた。
すると、不意に快斗がへにゃりと眉を下げた。

「……って思ってたんだけど。昨日、俺が夜の間に出て行こうとした
ら、新一に置いていくなって言われてさ。その時初めて気づいたよ。
もしかしたら新一も何かに傷ついていて、独りで寝る夜は怖いんじゃ
ないかって」

そこまで言って、快斗は急に赤くなった。

「ついまたキスしちゃったんだよね。しかも結構深いやつ。だってあ
んな顔で『俺にはお前が必要なんだ』とか言われたらさぁ! むしろ
キスだけで我慢できた俺えらいと思う!」
「……………」

この人、やっぱりただ惚気たいだけじゃないかしら、と哀は溜息を吐
きたくなったが、何とか心の中だけに留めた。

「……まあ、そうね。心の病気を患っているのは、あなただけじゃな
いってことね」
「それって……」

本当は患者の病状を他の者に話すことは厳禁だが、快斗には話すべき
だと思った。むしろ、よく今まで隠し通せていたものだ。

「一に睡眠障害。あなたと同じね。彼の場合は傍に人の気配があると
眠れないの。かと言って一人でも不安で眠れないことが多いらしくて、
不眠状態が続いていたのよ」
「えっ、じゃあ俺が家にいたら……」
「何でかあなたの気配があるとぐっすり眠れることに気づいたようで、
それであなたを家に連れ帰ろうとしたのよ」
「じゃあ新一も俺と同じだったんだ」

そういうことになるわね、と相槌を打った。快斗は心なしか嬉しそう
だ。

「何だか不思議ね。あなたも工藤君も。敵同士だったあなたたちが、
お互い傍にいると安心して眠れるなんて」
「何か運命感じちゃうなー」

頬が緩んでいる快斗はちょっとうざい。
哀は咳払いをして早々に話の軌道を戻した。

「そしてこれもあなたと少し似ているけれど、自分が誰かの傍にいる
ことで、その人に不幸が降りかかるという根拠のない不安に苛まれる
恐怖症ね。工藤君が学校を辞めた最大の理由よ。この一ヶ月、誰も家
を訪ねてこなかったでしょう。おかしいと思わなかった?」
「あ……」

新一の交友関係に詳しい快斗は、おそらく幼馴染の蘭や園子、大阪の
探偵などを思い浮かべているだろう。

「事件現場には行くから、大丈夫なのかと……」
「現場に出向けるのは単に、工藤君自身とは関係のないところで、す
でに死人が出ているからね」

おかげで死者のいるところにしか行けないなんて、皮肉な話だ。

「それから、摂食障害よ。具体的には拒食症」
「ああ、だいぶ小食だなとは思ってた」
「これでもだいぶ食べるようになったのよ。あなたがくる以前は身体
がほとんど食べ物を受けつけなくて、しょっちゅう栄養失調で倒れて
いたの。二日に一回は点滴を受けにきていたのよ」
「え……」

快斗が驚愕に目を剥く。
それはそうだろう。快斗が食事を担当するようになってからは、量は
少なくとも、新一は必ず美味しいと言って食べているし、吐いている
様子もない。哀からしたら、まず固形物を口に入れているところから
して大きな進歩だ。

「あなたのおかげでだいぶ健康面が改善されたわ。私だけではどうに
もならないことが多すぎたの」

最初は他人を住まわせるなんて正気の沙汰ではないと思っていたが、
新一の判断は間違っていなかったようだ。二人が出会っていなかった
ら、新一は今頃入院していたかもしれない。
哀は快斗に感謝していた。新一が救われるなら、快斗が犯罪者だろう
と何だろうとどうでもいいと思えるくらいには。

「だからよかったら、あなたの問題について、私に手助けさせてほし
いの。この間も言ったように私は専門医ではないから、できることは
たかが知れているけど、少なくともあなたを工藤君から引き離したり
しないと約束できる。現時点では、あなたにとっての一番の精神安定
剤は工藤君のようだし」

そして逆も然りだ。

「……正直、俺一人じゃどうしていいかわからなくて、でも新一に全
部寄りかかって負担をかけるのも嫌なんだ。だからドクターの協力は
ありがたい」

これからよろしくお願いします、と言って快斗は頭を下げた。



              ***


「ここか?」
「ああ」

新一は快斗を連れて、千影に教えてもらった寺井という人物に会いに、
ブルーパロットという店を訪ねた。昔ながらのプールバーという感じ
で、木の扉についた窓ガラスから、程良く明るい店内に並ぶビリヤー
ド台が見える。

扉にかかったサインはクローズになっていたが、快斗は構わず扉を引
いた。

カラン、と頭の上でベルが鳴る。

「! 坊ちゃま!」

出迎えた老人の顔が驚きに染まったのは一瞬で、すぐにスツールを二
脚カウンターの前に引っ張ってくると二人に座るように促した。

「坊ちゃま、お元気そうで……しばらく家に帰られないと奥様から聞
いた時は、心配しましたぞ……」
「ごめん、寺井ちゃん。今は新一の家にいるんだ」

寺井の目が新一に移る。新一は浅く頭を下げた。

「突然押しかけてしまってすみません」
「いいえ。奥様から、坊ちゃまがお世話になっている方が近々こちら
を訪ねられるだろうとお聞きしておりました。……まさか、名探偵の
工藤新一様だったとは」
「……今日は、快斗のことでお聞きしたいことがあって伺いました」

新一は、快斗と出会った経緯、そして快斗が精神的に不安定な状態で
あることを掻い摘んで説明した。
その間、快斗は出されたアイスコーヒー(ガムシロップは二つまでと
新一が決めた)のストローを甘噛みしながらぼんやりと聞いているよ
うだった。

恐らく千影は、新一が寺井を一人で訪ねると想定していただろうし、
新一自身初めはそうだったのだ。千影に会いに行った時のように、快
斗に黙って来るつもりだった。

しかし、彼が家を出て行こうとした夜。本人の知らないところで周り
の事態が動く、そのことが彼を逆に追い詰めることになるのではない
かと、新一は考え直したのだ。彼には自分の問題と向き合える強さが
あると、新一は信じたかった。

「それと、千影さんにはお話ししなかったのですが……実は俺も、心
因性と思われる障害を抱えています。本当は快斗を支えてやれるほど
強くないし、家に引き止めているのも俺のためなんです」
「新一……」

寺井はそうでしたか、と呟くと、深く深く思考を潜らせるかのように
目を閉じた。

「……新一様。春休みの間、快斗坊っちゃまは敵対していた組織の本
拠地に乗り込み、伝説のビッグジュエル“パンドラ”を彼らの目の前
で割るという本願を達成されました」
「パンドラ……」
「私は外で待機を命ぜられていたのですが、そこは研究施設のような
場所でした」

隣で黙って聞いていた快斗が緊張で固まったのに気づいて、新一は咄
嗟に腕を伸ばすと、膝に押し付けられていた彼の手を握った。

「そこでどのような研究がされていたのか、詳しいことは知りません。
ですが、結果的にその研究施設は燃え落ち、実験事故としてあたり一
帯ごと、軍によって封鎖されました」

快斗はその中で何を見、経験したのか。
その時のことを思い出したのか、快斗がカタカタ震え始めた。

「戻ってこられた時、坊ちゃまは怪我をされていて、すぐに現地の病
院に運ばれました。幸いそれほどひどい怪我ではなく、後遺症もない
とのことで、私は安心したのですが……坊ちゃまの様子がおかしいと
気づいたのは、帰国してからでした」

新一は立ち上がって、快斗を抱きしめた。額に浮いた汗を拭ってやる。
寺井はその様子を黙って見守っていた。

「……新一、ビリヤードやろうぜ」

やがて震えの治まった快斗がそう言い出した。立ち上がって、にっと
笑うと壁際のキューを二本取り、一本を新一に寄こした。

「俺、強ぇぞ。ハワイで親父に鍛えられたからな」
「俺だって超有名ハスラーを負かしたんだからな」
「どうせマジックでずるしたんだろ」
「うっ」

三角の枠をそっと抜き取り、狙いを定めてブレイクショット。カンカ
ンカン、と威勢のいい軽やかな音が響いて球が散らばった。


快斗は下手だった。
あれだけ器用で何でもこなす男が、苦手なものがあったとは。
新鮮な気持ちで快斗の見当はずれなショットを眺めていると、穏やか
な表情でこちらを見ていた寺井が不意に零した。

「何だか、以前より下手になったように見えます」
「え?」

その時ちょうど快斗はキューを勢いよく前に突いたものの、見事に白
い球は斜めの方に転がって行き、そのまま縁に当たって止まった。斜
めに掠ったとは言え、勢いのない球だ。

「あああ〜もう!」

快斗が苛立たしげに頭を掻く。その時キューが快斗の右手の中でする
りと数センチだけ滑り落ちた。

「…………」

新一は無言で快斗に近づくと、キューを奪った。

「ん? 何?」

きょとんとする快斗に、新一は右手を差し出した。

「俺の手、強く握ってみろ」
「え? 何いきなり」
「いいから」

催促されて、快斗が戸惑いながらも新一の手を握ってくる。

「もっと思い切り」
「結構強く握ってるけど?」

傍から見たら、ただ突っ立って握手しているようにしか見えない。
寺井と快斗の困惑したような視線を感じながら、新一は手を離すと、
今度は快斗をカウンターに引っ張ってきてスツールに座らせた。そし
て右肘をカウンターに着かせる。

「腕相撲でもやるの?」

新一が肯定すると快斗はますます驚いたようだ。
だが言われるままに新一の手を取って、スタート、の合図で力を込め
る。
と、ようやく、快斗ははっと気がついたような表情を浮かべた。

本人としては力を入れているつもりなのだろう。だが、眉をぴくりと
も動かさず、大して力を入れているように見えない新一の腕は、ぐら
つきすらしない。

「あ、あれ……」

腕力にはそこそこ自信があった。少なくとも摂食障害のせいで平均男
子よりかなり細い新一に腕相撲で圧勝できるという自信は。

「新一様、これは一体……」

寺井が説明を求めるように新一を見る。新一は険しい顔で、口を開い
た。

「……右手が麻痺しているようです」
「麻痺? え、でも……」
「ほんの一部だ。その場合、他の筋肉で大体の動作は補えてしまうか
ら、本人に自覚がない場合も多い」

痺れなどの明確な感覚もないから、いまいちぴんと来ないのだろう。
だが、力が入っていないという事実は目の前で証明された。

「麻痺の自覚はなくても、右手に違和感を覚えることはこれまでにも
あったんじゃないか?」

言いながら、新一は頭の中で色々なことが繋がってくるのがわかった。
簡単なシャッフルでトランプを取り落としたこと。マジックをやらな
くなったこと。マジシャンになる夢を語りたがらないこと。

「時々指が、上手く動かなくて……」

快斗がぽつりぽつりと話し始めた。

「怪我してるわけでもないのに、思うように動かなくて……もうマジ
ックできないのかもって思ったら、どうしていいかわからなくて」
「それで、意図的に遠ざけていたのか」
「うん、でもやっぱり好きだから、時々カードに触ったりして、でも
失敗するのが怖くて……」

千影は、快斗がマジックをやらなくなったのはマジックを犯罪に使っ
たことへの後ろめたさからじゃないかと推察していたが、そうではな
かったようだ。
好きだ、でも怖いと零す快斗に、新一は納得した。快斗がその程度の
ことでマジックをやめられるわけない。だってマジックは彼の生き甲
斐だ。

「寺井さん、快斗に、手に後遺症が残るような怪我はなかったんです
よね」
「はい、神経や筋に損傷はありませんでした」

ということは、これもやはり心因性ということか。
酷い怪我をした部分が、完治した後も脳が怪我していると誤認して正
常に機能しないという話は聞いたことがある。だが快斗の場合は、そ
もそも手に怪我を負ったわけではない。

「……灰原に相談してみる必要があるな」





















新一視点→シリアス
快斗視点→ラブコメ

快斗のテンションが急に高いですが、わりと今までも彼の脳内はこん
な感じでした(笑



※病気の症状などについては、都合のいいように改変・捏造ありの適
当な知識です。真に受けないようにお願いします。
また、実在する病気、患者の方々を中傷・差別する意図はありません。
フィクションはフィクション。


14/08/21