気象庁が梅雨入りを宣言して以来、嫌な天気が続いている。雨が降
っていようといまいと空気がじめじめしていて不快だ。毎年のこと
ながら慣れることはなさそうである。工藤邸でも除湿機を稼働させ
る頻度が日に日に増していた。

「今日は依頼も要請もないし、何すっかな」

朝食の後、快斗と二人で部屋の中に洗濯物を干し終わって、新一は
呟いた。

「この天気じゃ外には出たくねぇし、何か身体もだるいんだよな」

暇な日は書斎の膨大な本の整理や掃除に費やすことも多いが、そん
な気分にもなれなかった。

「家の中でゆっくりしようよ」
「何か隠居したジジイみたいだな」
「そういう日があってもいいだろ。事件が起きたら新一はそっちに
かかりっきりになるし」
「だな。DVDでも見るか」

テレビの脇のラックを新一が物色していると、快斗がキッチンから
大きな缶を持ってきた。いつだったか蘭から某テーマパークのお土
産にもらった、キャラクターの描かれたクッキー缶だ。中身を食べ
きった後(ほとんど少年探偵団にあげた)は、缶だけ放置してあっ
た。

「昨日クッキー焼いたから詰めといた」
「コーヒー淹れる」
「うん。DVD選んだ?」
「これなんかどうだ? 服部に借りっぱなしで忘れてた」
「ああ、一昨年出たやつか。いいよ、俺も見たことない」

快斗がディスクをセットしている間に、コーヒーを淹れる。一つは
ブラック、一つはカフェオレ。もうすっかり慣れた。
カップを手にリビングに戻ると、快斗はタイトル画面前に流れるほ
かの映画のCMを熱心に見ていた。

「あ、これは去年蘭と園子と見にいったな」
「え、新一もこんなこてこてのラブストーリー見んの?」
「無理やり連れていかれたんだよ……半分寝てたからあんま覚えて
ねぇな」
「ああ、なるほど」

三人がけのソファに並んで座る。
本編が始まると、時折この俳優はいいとか日本語字幕の訳し方がど
うとかl会話を挟みながら映画を見た。
推理ものとアクションを混ぜたような話で、探偵と巻き込まれた一
般人が正体不明の追手から逃げながら事件の真相に迫っていくとい
う、筋としてはありきたりなストーリーだ。

「あー、ここでカーチェイスになるところがハリウッドだよなぁ」

車を奪って逃走なんて、普通は無理だ。

「街中でこんな運転できねぇだろ。捕まるか、その前にぶつかって
事故るかだな」
「えー、それ新一が言っちゃう?」
「何が?」
「コナンがいまだ道交法違反で起訴されてないのが謎すぎるって話」
「それはまあ、状況が状況だったからな」
「ターボエンジン付きのスケボーで一般道や高速道路を疾走してい
い状況って何だろうな……」

快斗が遠い目をして言う。
じゃあ東都タワーからハンググライダーで飛び立ってビル群の間を
飛んでいい状況は何なんだよ、と言い返そうとしてやっぱりやめた。
互いの過去のやんちゃについて抉りあったって不毛すぎる。

画面の中で、追手が車のウィンドウから銃口を突き出して発砲した。
リアウィンドウに罅が入り、頭を伏せながら大きく蛇行して銃弾を
避ける主人公たち。続けざまに発砲されて、一方的な銃撃から逃げ
ようと一向は波止場へ向かった。
銃撃シーンに迫力を出すためか思いのほか発砲音が大きく響いて、
新一は少し音量を下げた。

「こんなことしたらテロだと思われて軍隊出てくるよな」

乾いた笑いを漏らした新一は、返事がないのに気づいて隣を見た。

「?」

快斗は膝を抱えて顔を埋めるように蹲っていた。

「快斗? どうした? っ、おい! 快斗!!」

丸くなった身体はガタガタ震えていて、揺すろうと手を伸ばすと、
背中が汗でじっとり濡れていて身体が冷えているのに気づいた。無
理やり顔を上げさせると目は虚ろで、新一の呼びかけにも反応しな
い。

「快斗!  返事しろ! 快斗!!」
「いやだ、いやだ、やめろ違う違う何でいやだ……」

快斗の様子がおかしいことは今までにもあった。だがここまで精神
を自失している光景は衝撃的で、新一は気が動転していた。

――どうしようどうしようどうしよう、快斗が、快斗が危ない……

自分を映してくれない目に、じわじわと絶望がせり上がるように新
一の思考を奪っていった。快斗を失うかもしれない、その考えに至
った瞬間、新一は床に崩れ落ちるようにへたりこんだ。

「……快斗……嫌だ、どこにも行くな……」

あまりの恐怖に、体に力が入らない。

その時、快斗がぽつりと呟いた。

「……怖い……しんいち、助けて……」

新一ははっとして快斗を見た。虚ろに見えたその目は、恐怖に支配
されそうになりながら、僅かに残った希望に縋りつこうとするよう
に助けを求めていた。ほかでもない新一に。

「快斗……」

思考がだんだんクリアになっていく。理性が戻ってきた。
新一はソファの上に転がっているリモコンに手を伸ばすと、テレビ
を消した。ふつりと静かになって、さらに冷静な部分が目を覚まし
た。そして傍の携帯電話を手繰り寄せ、迷うことなく短縮を押した。

「……灰原! 博士! すぐに来てくれ!」



                          ***



快斗が目を覚ますと、微かな機械の稼働音と、パソコンのキーボー
ドの規則的な音がした。何度か瞬きをして、自分の状況を把握しよ
うと首を動かすと、キーボードの音がぴたりと止んで、椅子の軋む
音がした。

「気がついたみたいね」

快斗が寝かされているベッドに近づいてきたのは、白衣を羽織った
小学生の少女だった。

「ここはあなたの部屋で、私は灰原哀。自分がどうなったのか覚え
てる?」

快斗はぎこちなく頷いた。とうとう恐れていたことが起こってしま
った。

「……新一はどこ?」
「隣で寝てるわ。あなたの傍を離れようとしないから、スープに睡
眠薬を入れたのよ。気づかないなんて、よっぽど気が動転していた
ようね」
「……俺どれくらい寝てた?」
「まるまる二日間ね」

枕元に置いてある未開封のペットボトルを指差されて、快斗はそれ
で喉を潤した。何か食べる?と聞かれて首を振る。空腹だったが、
食欲がなかった。

「それじゃ、先にいくつか聞かせてくれるかしら」

哀がデスクの椅子に腰かけた。距離があるのは快斗に配慮してかも
しれない。

「私は専門医ではないから、あなたの問題を解決できるとは限らな
い。踏み入られるのが嫌なら拒否してくれて構わないし、質問に黙
秘してもいいわ」

快斗は頷いた。

「それじゃあまず、あなたの名前を教えてくれる?」



                           ***



哀が部屋を出ると、傍の壁に新一が腕を組んで寄りかかっていた。

「あら、起きてたの」
「ああ。悪い、迷惑かけたな」
「そう思うなら早く元気になりなさい」

新一が苦笑する。

「あいつは?」
「今また寝てるわ。食事はいらないって言われてしまったけど、あ
なたの作ったものなら食べるんじゃないかしら」

そうだな、と相槌を打ちつつ、視線で先を促される。

「話は少し聞けたわ。主に、自覚している症状について。原因に関
する部分は詳しく聞かなかったけど」
「ああ」
「……彼、怪盗キッドなんでしょう?」
「よくわかったな」
「あなたがそこまで入れこむなんて、彼か事件くらいのものだわ」

二人はリビングに場所を移した。

「博士は?」
「夕飯の支度するって言ってさっき戻ったぞ」

見れば、そろそろ日が落ちる頃だ。開けた窓から気持ちのいい風が
入ってくる。

「彼は今精神的にとても不安定な状態にあるわ」
「PTSDか」
「一つの病名で括ることは難しいわ」

例えば、と哀は指を一本立てた。

「不眠や、悪夢に魘される。典型的な睡眠障害ね」

新一は心当たりがあるようで、険しい顔をしていた。

「そしてさっきの“発作”はフラッシュバック。何かがきっかけに
なって、ショックな出来事を鮮明に思い出してしまった。DVDを
見ていたって言ってたけど、彼がおかしくなったのはどんなシーン
の時だったの?」
「銃撃シーンだった」
「……発砲音が原因かしら」
「だろうな……」
「それから、人との接触を怖がる傾向があるわね。彼、ほとんど外
に出ていないんじゃない?」
「ああ。実はこの間初めてちょっと一緒に出かけたんだ」

新一にその時の様子を聞いて、哀は首を傾げた。

「対人恐怖症と言ったところかしら? でも赤の他人よりも知り合
いを怖がるなんて」
「たぶん、傷つけられることが怖いんじゃなくて、自分が誰かを傷
つけてしまうことが怖いんだと思う」
「それは……つまり、加害恐怖症ということかしらね」
「加害恐怖症?」
「強迫性障害の一種よ」

自分が誰かに危害を与えてしまうのではないか。そんな想像が頭を
支配して怖くなる。

「でも、あなたに対しては平気なのね」
「ああ、みたいだ」
「何故かしら……」
「さあ……」

新一は考えるように俯いた。

「……あのさ、これもそうかわかんねぇんだけど」
「何?」
「あいつ、結構甘党らしいんだけど、それにしても異常な気がする
んだ」
「どういうこと?」
「ほとんど毎日のように甘いもの作ってるし、コーヒーとか紅茶に
もやたら砂糖入れるんだ。正直糖尿病の心配しちまうくらい」

糖分の過剰摂取。そういえば、たびたび隣家から甘い匂いが漂って
いた。しかも快斗はほとんど家にこもりっぱなしである。これは後
で健康診断をする必要がありそうだ。精神的な問題を解決する前に、
身体の方が根を上げてしまう。

「本当はこういうことはちゃんとした専門医に診てもらった方がい
いんでしょうけど」
「快斗のケースは特殊だからな……訳ありすぎて外部の人間には詳
しく話せねぇし」

如何せん“普通の高校生”とかけ離れ過ぎているのだ。

「灰原、本当に迷惑かけてすまない。感謝してる」

いつになく殊勝な態度に哀は溜息を吐いた。

「今更だわ」


                        ***


真夜中。
静まりかえった家の中、時計の針の音だけが暗闇に響く。
ゆっくりとベッドから起き上がると、フローリングにそっと足をつ
けた。クローゼットの中に準備しておいたボストンバッグを肩にか
け、慎重に扉を開ける。彼が寝ている隣の部屋のドアをしばらく見
つめると、足音を立てないようにそっと階段をおり、スニーカーを
引っかけた。

――さようなら。

声に出さず唇だけで呟いて、玄関の扉に手をかけた。

その時、照明がぱちりと点いた。

「どこ行くつもりだ?」

振り返ると、階段下の壁に凭れかかって立つ彼がいた。


「……新一」
「出ていくつもりなのか」

こちらを見つめてくる新一の目が責めているようで、快斗は俯いた。

「ここを出て、どこに行くつもりなんだ」
「…………」

答えられなかった。行く宛てなど最初からないのだ。ただ、ここを
出ないと。その一心で。

「そこは、ここよりも休めるところなのか」

新一の声に悲痛な響きが混ざって、快斗はハッと顔を上げた。新一
はもうこちらを見ておらず、耐えるように唇を噛んでいた。

「オメーにとって、もっと安らげる場所があるなら……俺の傍にい
ることが苦痛なら、止めない」
「違っ……」

快斗は引っかけただけの靴を脱ぎ捨てて、新一に駆け寄った。

「違う、新一の傍よりも安らげる場所なんて俺にはない」
「ならどうして逃げるんだ」
「逃げ……?」
「どうして、俺を置いていくんだ。オメーがいて俺はやっと、眠れ
るのに」
「新一……?」
「快斗、快斗……」

初めて見る、半ば取り乱したような衰弱ぶりに、快斗はたまらず新
一を抱きしめた。

「違う、俺はただ、ここにいたら新一の迷惑になると思って……今
日のではっきりしたと思うけど、俺、普通じゃないんだ。精神的に
ちょっと参ってるんだと思う。自分じゃコントロールできないこと
があって……新一の負担になって、嫌われたくないから。新一に見
放されたくないから……」
「お前はわかってない」

顔を上げた新一の目が僅かに潤んでいて、快斗は混乱した。いまだ
かつてこんなふうに懇願するように縋る新一を見たことがあっただ
ろうか。
この家に来てからというもの、新一はいつも快斗を優しい温度で包
んでくれた。自分はそんな彼にいつか迷惑をかけてしまうことが怖
くて、でもこの場所が心地よくてずっと彼の優しさに甘えていた。
でももしかすると新一も、独りの夜を恐れることがあったのかもし
れない。

「俺にはお前が必要なんだ」

新一の唇からするりと出たその言葉は、快斗の想いとぴたりと重な
った。共鳴するように胸が震える。
上手く言葉が出てこなくて、けれど大きすぎる想いを伝えたくて、
快斗は新一の唇を深く塞いだ。





















お待たせしました!

3視点一度に。

これまでは快斗の新一への依存度が高いように見せていたのですが、
実はそうでもないのかも?という終わり方でした。

病気の症状云々のところは本当に適当なので真に受けないでくださ
い。まだ触れてない謎もあるので、これからも症状に関する会話が
出てきますが、どうぞ「フィクション、フィクション」を合言葉に
ご覧ください。


14/07/27