新一はとある住宅街に来ていた。
先日、警視庁から江古田市役所に問い合わせて聞き出した住所を
携帯の地図で確認しながら、表札を確認していく。
「……ここか」
〈黒羽〉と書かれた二階建の家を見上げる。オフホワイトの壁に、
玄関先に飾られた植木鉢。自転車が二台。二階の窓のカーテンは
引かれたままだ。
意を決してチャイムを押すが、数秒待っても反応がなかった。留
守のようだ。失礼を承知で突然訪ねて来たのだから、この可能性
は十分あった。一階のカーテンは開いているから、暗くなる前に
は帰宅するだろうと踏んで、暫く待つことにする。
自転車が置いてあるから、出掛けたとしても歩ける範囲。買い物
なら荷物があるから自転車を使いそうだ。駅までは歩いて十五分。
女性の足なら二十分。雨の予報もないし、駅に行くなら自転車だ
ろう……いや、元怪盗淑女なら健康志向で二十分くらい……
などとつらつら考えていると、背後から軽い足音が近づいてきた。
「あら、うちに何か用かしら?」
振り返った先には、肩のところで髪を切り揃えたスレンダーな女
性が立っていた。見た目は三十代後半で、十分美人の部類に入る。
新一の顔を見た瞬間、彼女は僅かに目を丸くした。予想していた
反応だから、改めて推理するまでもなかった。“高校生探偵工藤
新一”を警戒すべきか、夫を通じて親交があったはずの工藤有希
子の息子“新一君”が訪ねてきたことに驚くべきか。選択を迷っ
た一瞬の間だ。
彼女はすぐに微笑みを浮かべた。
「……快斗のお友達?」
その言葉が、彼女が息子の居場所を知らずにいたということを新
一に教えた。そして問いかける。新一が快斗の味方なのか、それ
とも敵なのか。
「……はい」
新一の短い答えに彼女は笑みを深めると、よかったらあがって、
と門扉に手をかけた。
淹れてもらった紅茶を飲みながら事情を掻い摘んで話し終えると、
彼女――黒羽千影は深く息を吐いた。
「……そう。快斗の世話をしてくれてるのね。ありがとう」
「いえ、世話だなんて。俺の方が世話になりっぱなしです」
「でも、あの子はそうは思ってないでしょう」
「それは……よくわかりません」
新一はカップに視線を落とした。
「あの子はどうしてる?」
「家のことを色々とやってくれてます。あまり外には出たがらな
いんですが、この間は一緒にちょっと出かけて……マジックは、
あまり、というかほとんどやらないみたいですけど」
「そう……」
どう切り出せば良いか、言葉選びに迷ってなかなか核心に触れら
れない。
すると千影の方から口火を切った。
「あの子が春休みの間に何をしていたのかは、知っているわ。あ
の子はほとんど何も話さなかったけれど、大体のことは寺井さん
から聞いたわ」
寺井というのは黒羽盗一の付き人だった人で、今は快斗の付き人
をしてくれているのだと千影は話した。
「あの子が盗一の残した部屋を見つけてキッドを継いだのは16
歳の誕生日だった。それから快斗は盗一を殺した組織と戦い続け
てきた……。決着はようやくついたけど、あの子の中で傷は深ま
る一方だわ。辛い幕引きを勝手に子供に委ねるなんて、酷い親だ
と思うわよね」
「そんなこと……あいつは感謝してると思います。あいつなら、
何も知らないままより、真実を知って傷つく方を選ぶ。キッドで
あることに誇りを持っていましたし、辛いことばかりだったわけ
でもないはずです」
少なくとも自分と対峙して追いかけっこしていた時は、全力で楽
しんでいるように見えた。あの時間の楽しそうな顔は嘘じゃない
よな、と新一は心の中で問いかけた。
「そうね、ありがとう。……でもあの子がマジックをやらなくな
ったのは、やっぱりキッドのせいなのよ。マジックを犯罪の手段
にしてしまった」
「それが原因、なんですか」
「直接聞いたわけではないけど……マジックができなくなるよう
な怪我をしたなんて話は寺井さんから聞いてないし、たぶん、本
人がそう決めたんじゃないかと思ってるわ」
「もうマジックはやらないと? でも……」
カードを操っていた快斗を思い出す。快斗はまだ、マジックをや
りたがっているように見えた。
だが本人がいないところで推測を重ねても意味はない。
新一が口を噤むと、千影は傍のメモ用紙を手繰り寄せて、さらさ
らとペンを走らせた。
渡されたメモには、【BLUE PARROT】の文字と、その
下に携帯の電話番号が書いてあった。
「寺井さんのお店よ。私よりは、あの子に何があったか知ってい
るはずだから」
「ありがとうございます」
快斗は、今も寺井と連絡を取り合っているんだろうか。
何となく、取っていないんじゃないかという気がした。工藤新一
の家にいることを、快斗はきっと誰にも言っていない。そもそも
経緯と理由を正確に説明するのが難しい。
メモから顔を上げると、千影の辛そうな微笑が目に入ってハッと
した。そうだ、彼女は快斗の母親なのだ。息子が傷ついていて、
心配しないわけがない。
大事な息子を他人に預けるなんて、本当は嫌に決まっている。
「あの……本当は、すぐにでも快斗を帰らせるべきだとはわかっ
ているんです。でも……」
自分の存在が彼を救うなんて考えるほど自惚れてはいない。けれ
ど、少しでも傍で支えてやりたいという気持ちが、新一の中にあ
るのだ。そして同時に、新一自身にとってもやはり、今は彼の存
在が必要なのだ。
「いいのよ。あの子が新一君のところにいるということは、あの
子にとってあなたが必要ということだと思うわ。むしろ私の方か
らお願いします。新一君には色々迷惑をかけるかもしれないけど、
もうしばらくあの子の傍にいてやってくれないかしら」
「迷惑なんかじゃ、ありません」
きっぱり言うと、千影は表情を和らげた。
「ありがとう」
ふと時計を見ると、思ったより時間が経っていたようだった。あ
まり快斗を一人にするべきではないだろう。新一はそろそろ辞去
すると伝えるつもりで、カップに残っていた紅茶を飲み干した。
「……そういえば」
空のカップを見つめながら、新一は不意に浮かんだ疑問を口にし
た。
「あいつって結構甘党ですよね」
「そうね」
「じゃあコーヒー飲む時は砂糖入れますよね」
「ええ。いつもどばどば入れるのよね」
「どばどば……」
「スプーン5杯。いつもそれくらいだったかしら」
「そうですか……」
黒羽家を出ると、小雨が降っていた。
念のためと快斗に言われて持ってきた折り畳み傘を差して、駅に
向かう。平日の中途半端な時間だからか、住宅街には人気がなか
った。
その足音は唐突に現れた。
深紅の傘が前方から近づいてくる。
顔は見えなかったが、つい最近見たばかりの制服と、艶やかな長
い黒髪で、誰何する必要はなかった。
彼女は新一の前で足を止めた。
「この間は突然押しかけて悪かったわね」
彼女は少しも悪いと思っていないような、相変わらずの尊大な態
度で言った。
「あいつなら今日は一緒じゃないけど」
「知ってるわ。あなたに用があるのよ」
「俺に?」
彼女はぺらりと一枚の紙を差し出してきた。
「……これは?」
雨水を吸い取って濡れないうちに慌てて受け取る。一瞥してから
顔を上げると、彼女は不機嫌そうに眉を寄せた。
「彼についての基本的な情報よ」
「いや、それはわかるけど……」
生年月日、家族構成から始まり、学歴・経歴、趣味、特技などが
リストアップされている。まるで履歴書だ。
聞きたいのは、なぜ彼女がそんなものを新一に渡すのかだ。
「もしかしたらあなたが、彼のことを何も知らずに一緒にいるん
じゃないかと思ったのよ」
「…………」
図星だ。というかあまり気にしたことがなかった。新一が知って
いるのは怪盗キッドとしての彼と、ここ数週間同じ屋根の下で暮
らした彼のこと。それで十分じゃないのか。
この“履歴書”には調べようと思えば簡単に調べられる程度の情
報しか記載されていないが、それらこそ新一の知らない快斗の情
報だった。
「……君はあいつの友達、でいいんだよね?」
「小泉紅子よ」
「小泉さん。ありがとう」
彼女が何者なのか、そしてなぜ彼女がこんな個人情報満載のもの
を持っているのかはわからなかったが、それを新一に渡すという
ことはつまり、快斗を新一の手に委ねてくれるということだろう。
「彼はあなたを選んだ。私はそれを正しい選択だとは思わないけ
ど、彼がそれで良いならもう何を言っても無駄だと思っただけよ」
紅子は傘を少し前に傾けて言った。顔が隠れて、どんな表情をし
ているのかわからなかった。
「彼はこんなことで潰れるような男じゃない。また立ち上がれる
って、みんな信じてるのよ。今は少し、羽を休めているだけ」
強くなってきた雨音の中でも、紅子の声ははっきりと鋭く新一の
耳に届いた。
「……快斗に伝えればいいのか?」
「いいえ。ただ、彼を待っている人がいるってことを、あなたに
知っていてほしいだけよ」
どきっとした。快斗の面倒を見ているようでその実彼を傍に引き
とめたがっているのを見透かされたようだ。
紅子は言うだけ言うと、もう用は済んだとばかりに紅子は踵を返
し、あっという間に雨の中遠ざかっていった。
「……知ってるさ、そんなこと」
力を込めた手が、湿った紙に皺を作った。
再びそれに目を落とすと、新一はふとあることに気がついた。
「あいつの誕生日、もうすぐだ……」
もしかして、彼女はそれを新一に教えるために、こんなものを寄
こしたのではないか。
思ったよりも応援してもらえているのかもしれない、と少しだけ
心が軽くなった。
本当は快斗の誕生日までに終わらせる予定だったんですよこの話…orz
14/07/09
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