八時半にセットしていた目覚ましの無粋な音に起こされる前に、自然
と覚醒した頭で枕元の時計を見る。八時を回ったところだ。
起き上がってカーテンを開ける。
うん、良い目覚めだ。頭もすっきりしている。
部屋のドアを開けた途端、トーストの匂いとコーヒーの香ばしい香り
が漂ってくる。誘われるように階段を下りていく。
「あ、おはよう新一」
「おはよ、快斗」
「今朝ご飯できるから。顔洗ってきなよ」
ここ数日ですっかり定着したやり取りだ。
新一は素直に洗面所に向かった。
土手で見つけた少年を家に連れ帰ってから数日。
名前を聞いたところ黒羽快斗と名乗った。本名か偽名かは知らないが、
おそらく本名だろうと思っている。
快斗のもう一つの顔については、互いに一度も触れなかった。
二ヶ月程前、財界の大物が逮捕され、裏では怪しげな組織が瓦解した
ことで少々騒がしくなった。
その少し前、かの怪盗は華々しい引退公演という名の犯行で、自らの
手で些か長すぎた幕を引いた。
いずれにせよ、もう過去のことだ。
俺のうちにこないか、という唐突かつ突飛すぎる提案に、彼は少しの
逡巡の後頷いた。
そのまま家に連れ帰り、翌日の朝早くに出て行った彼はその数時間後
にはボストンバッグ一つと共に工藤邸のチャイムを鳴らしたのだった。
*
「どういうつもりなの」
同居三日目に、一週間ごとの定期検診のため隣に赴いた時、血圧を測
りながら少女に問われた。測定気には脈拍も表示されるから、もしか
したら嘘発見器代わりにして尋問する気だったのかもしれない。
「何が?」
「何が、ですって。最近あなたの家に居座っている男のことに決まっ
てるじゃない」
「俺が提案したんだよ。うちにこないかって」
「あなたが?」
哀が顔を顰める。
「あなた、今の自分の状態がわかって――」
「だぁいじょうぶだって。むしろ、楽なくらいなんだ」
「……確かに、数値も多少改善してるみたいだけど」
パソコンのディスプレイを見ながらも懐疑的に眉を顰める哀に、新一
は苦笑した。哀が心配する気持ちも理解できる。自分でも驚いている
のだ。他人をこんなに近くに置いていることに。
「今日は点滴もいらねぇかな」
哀は驚いたように目を丸くした。元の身体に戻った後何度か栄養失調
で倒れてから、二日と空けずに点滴をしに来ているこの探偵が。
「平気なのね?」
念を押すように聞いてくる。それは点滴のことだけじゃないだろう。
「ああ」
微笑を浮かべて答えると、哀は「それなら何も言わないけど」と言っ
て血圧測定器のバンドを外した。
*
顔を洗ってダイニングに戻ると、快斗が皿をテーブルに並べ終わった
ところだった。
「いただきます」
「どーぞ。いただきます」
二人で手を合わせて食べる。
ほうれん草のオムレツはふわふわとろとろだ。相変わらず素晴らしい
料理の腕に、意図せずハイレベルなコックを手に入れたことを喜ぶ。
「そういやさ」
トーストにこれでもかと言うほどジャムを塗りたくっている快斗に話
しかける。
「オメー、学校はいいのかよ?」
快斗のジャムを塗る手がほんの一瞬だけ止まった。
同居生活を始めてからこっち、快斗が学校に行くところを一度も見て
いない。発見した日には学ランを着ていたのだから、休学していると
いうこともないだろう。
「俺につき合って休んでんだとしたら……」
「それはないって。ただちょっと、何てーか……五月病?」
おどけて答える快斗に小さくため息を吐く。まだ詮索はしない方がよ
さそうだ。
「ていうか新一こそ学校どうしてんの」
「退学した」
「え」
快斗がトーストを皿に置いた。
「……もしかして、身体がまだ……」
「そういうんじゃねぇよ」
不安げに揺れた瞳にすぐさま否定するが、いまだ心配そうに新一を見
る快斗に、言葉を付け足した。
「本当に身体は大丈夫だって。ただ一年近く休学しちまったからなぁ。
留年すんのも何か面倒だし、大検でも受けりゃいいだろ」
勉強は問題ないんだし、と言うと、納得したように相槌を打った。
それより良いのだろうか、と口には出さずに新一は快斗を窺い見た。
新一の身体が普通の人と違う事態に陥ってたことを知る人間は限られ
ている。
というより、そもそもキッドだったことを隠す気がないのかもしれな
い。
「オメーは? 大学行くのか?」
「うーん」
「マジシャンになるんだろ?」
「さあ。どうだろうな」
予想外の無気力な返事に、新一は眉を顰めた。
快斗がマジックをするところはまだ見たことがないが、キッドを見て
いた時からずっと、マジシャンになるのだろうと思っていた。だって
あんなにキラキラした目でマジックをするのだ。あれはまさしく子供
のような目だった。
なのになぜ、今はこんなにも冷めた目をしているのだろう。
いつの間にか食べ終わっていた快斗は、今はコーヒーにどばどば砂糖
を入れている。
スプーン1、2、3……7。
結局ティースプーン七杯もの砂糖を入れてごりごり音をさせながら掻
き混ぜたコーヒーを、快斗は満足そうに飲んだ。
14/04/28
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