教授が午前のゼミの終了を告げると、快斗は筋肉をほぐすように肩を
回した。

「黒羽ぁ、飯いこうぜー」
「こないだ正門の近くに新しいラーメン屋できたじゃん?」
「あー……」

声をかけてくる友人たちに、快斗は言葉を濁した。

「悪ぃ、ちょっと昼休みの間に済ましときたい用事があんだ」
「えー?」

不満そうな声を上げる友人たちと工学部棟の入り口で別れて、正門と
は反対方向に足を向ける。
多くの学生が集まる食堂の入口を素通りして講堂の裏手に回ると、一
気に人が少なくなった。喧騒を背に、速足でキャンパスの反対側へと
向かう。

生協本部や委員会本部、そしていくつかの音楽サークルの活動場所と
して使用されているその建物は、他の棟から切り離されたようにぽつ
んと建っている。
そこの一階が、快斗の目的地だ。

生協書籍部。

半円形のその建物は外から見ると小さく見えるが、中は以外に広さが
ある。ここの書籍部も一般書から漫画、専門書まで、幅広いジャンル
の書籍を扱っており、棚を見て回るだけでも一苦労だ。

今まで、授業で使う教科書や専門書を買いに来る以外はほとんど訪れ
たことがなかったが、快斗にはどうしても手に入れたいものがあった。

「えーと、新刊は、と……」

先週、喫茶店で彼と相席になった時に、彼が読んでいた本を探してい
るのだ。
快斗も名前は知っている有名な作家の新刊で、発売直後から売り切れ
になる本屋が続出しているそうだ。実際、快斗の家の付近の本屋でも
売り切れだった。
その点、利用者層が限定されている大学の書籍部では、人気の書籍で
も在庫が残っていることが多い。街の本屋は巡っても、大学内の書籍
部まで巡る人間は少ない。


「……あ、あった」

平積みされていたその本を手に取って、読みが当たったことに小さく
口角を上げた。
一応値段を確認しようと表紙を返して――

「それ買うのか?」
「うわっ?!」

突然背後からかけられた声に、快斗は危うく本を取り落とすところだ
った。何とか持ち直して、勢いよく振り返る。と、そこにはあり得な
い人がいた。

「な、な、なっ……」
「何でここにいるかって? そりゃ、本を買いに」
「そうだけどちっがーう!!」

小声で叫んで、快斗は思わず目の前の人物の肩を掴んだ。

「何でここにいんの?!」
「だから本を買いに……」
「じゃなくて! 何でこの大学にいるわけ?! ……まさかここの学
生だったとか……」
「おう」

しれっと肯定した彼に、快斗はがっくりと項垂れた。
まさか、自宅付近の喫茶店で目で追っていた彼が、実は同じ大学の学
生だったなんて。世の中狭い。

「改めて。電子情報工学科の工藤新一だ」
「俺は機械情報工学科の黒羽快斗……って、電子情報工学?!」

しかも同じ工学部だったなんて、ずっと近くにいたのに気づかなかっ
たのが恨めしい。
4ヶ月間話しかけることもできずにただこっそり見ているだけだった
だけに、衝撃の事実だ。
むしろ今まで授業が被っていなかったのが不思議なくらいだ。

「っていうか工藤は全然驚いてないみたいだけど?」
「あー、お前のことキャンパスで見たことあるような気がしてたから
な」
「つまり知ってたわけね……」

それなら喫茶店で短いながら会話をした時にそう言ってくれればよか
ったのに。

「それで黒羽、それ買うのか?」
「え? あっ……」

快斗は手に持ったままだった本の存在を思い出し、はっとした。
先週新一が快斗の目の前で読んでいたものだ。快斗のストーカーまが
いの行動がばれたら、何と思われるか。

「いや、その……」
「もしかして黒羽も推理小説好きなのか?」
「えっ。あ、うん」

本を読むのは割と好きな方だし、嘘ではない。

「へぇ! だったらその本貸してやろうか? 俺持ってるし」
「え、いいのか?」
「おう。明日大学来るか?」
「ああ。2、3、4限が入ってる」
「俺も2限から。あ、じゃあ昼飯一緒に食わねぇ? その時に渡すか
ら」
「オーケー。サンキュな」

嬉しい展開に内心ガッツポーズする。
遠くから見つめるだけだった関係から、ペットを通じての知人になり、
それからあっという間に、本の貸し借りをして一緒にご飯を食べる友
人ポジションに昇格だ。






「えへへー」
「……にゃー」

昼間の出来事を思い出してにやにやしていると、キッドが呆れたよう
に鳴いた。

「いいだろー。羨ましいだろー」
「にゃー」

ペットからの冷たい視線を感じるが、今の快斗にはそんなもの、まっ
たく効かなかった。

「一緒に昼飯食わないか、だってー」
「にゃ……」
「俺が推理小説好きって言ったら目きらきらさせてたなー。可愛いな、
工藤……」
「………」

いい加減うざったくなったのかそれとも崩れまくった顔が気持ち悪か
ったのか、キッドはくるりと快斗に背を向けてしまった。

「えへへー」
「………」

狭いベッドの上でごろごろと転がる快斗の頭を、キッドのしっぽがぺ
しりとはたいた。







「でさ、その後彼が一人で容疑者の家を訪ねるだろ?」
「そうそう、まさかあの人が第二の犠牲者になるとはなぁ」
「いや、あの段階ではまだ連続殺人と決めつけるのは早いだろ。何か
別の思惑が動いていた可能性もあった」
「例えば、被害者の奥さん、とか?」
「ああ。彼女にも動機はあったわけだし」

山菜そばを啜りながら、新一が指摘した。


快斗は新一と書籍部の上にある第二食堂で一緒に昼食をとりながら、
今までに読んだことのある推理小説の話をしていた。
新一は共通の話題で盛り上がれる快斗を気に入ったようで、さっきか
ら始終目をきらきらさせて快斗を見ている。

「トリックはわりとすぐ気づいたんだけどさ、動機がなぁ。まさか二
人が義理の兄弟だったとは」
「だよな。さすが新名香保里だぜ」
「あれ、オメーこれ以外にも新名香保里の小説読んだことあんのか?」
「あ、ああ。まあな」
「何だ! 趣味合うな、俺たち」
「あはは……」

それはそうだ。快斗が新一の趣味に合わせているのだから。

話しているうちに時間はあっという間に過ぎて、そろそろ移動しない
と3限の授業に間に合わない。
二人は惜しむようにのろのろと立ち上がって、半円形の建物を出た。

「それも読んだら感想聞かせてくれよ。今度はもっと落ち着けるとこ
ろで話そうぜ」

快斗の鞄に視線をやってそう言う。鞄には今日新一に借りた本が大切
にしまわれている。

「じゃあまたあのカフェで」
「ああ」

手を振って去っていった新一が見せた笑顔にしばしその場に立ち尽く
す。新一の笑顔が、輝いた目が、頭から離れない。

「おーい、黒羽ぁ、早く行かないと3限遅れるぞー」

後ろから追い越されながら声をかけられて、はっと我に返る。見ると、
追い越していったのは同じ学科の友人だった。次のコマの授業にも一
緒に出ている。

「ちょっと待てって」

小走りで追いつくと、友人がパックジュースをずーずー吸いながら言
った。

「そういや、今一緒にいたのって工藤新一?」
「えっ。お前知ってんの?」
「まあ。工学部電子情報工学科の工藤新一っつったら、そこそこ有名
じゃね?」
「え、何それ」
「高校一年の時に全国ハッキングコンテストで優勝して、今やその腕
を欲しがって、警察庁のみならず、各国の警察機関や諜報機関がアプ
ローチかけてるって噂があんだよ」
「へぇ、知らなかった」

快斗の中には、陽光の中ペットの子猫と戯れながら静かに読書をして
いるイメージしかない。
すると友人は少し遠い目をした。

「そういやお前、あんまり他人に興味ないんだっけ」
「ええ?」

工藤には興味あるぜ、と不満げに言い返そうとして、言葉を呑みこん
だ。

「まあ黒羽も同じくらい有名人なんだけどな……」
「へ?」

呟くように言われた言葉に訝しげに小首を傾げると、ため息を吐かれ
た。「自覚ないなぁ」という小さな呟きが聞こえる。

「しっかし、いつの間に工藤と知り合ったんだ?」
「あー、まあ、共通の……趣味っつーか」

白と黒の猫を思い浮かべながら言う。
思えば快斗を新一に出会わせてくれたのは、キッドとコナンだ。
今日はキッドお気に入りのスナックでも買って帰ってやるかな、と心
の中で呟いてくすりと笑った。

















2013/04/24