自分の学科の研究室を通り過ぎて、階段を一つ上る。 黒い札に白いペンキで書かれた「電子情報工学研究室」の字を認め、快 斗は恐る恐るドアを開けた。 数センチの隙間から、事務机とスチール棚が見える。どうやら部屋の中 にもう一枚ドアがあり、そこから隣の部屋へ繋がっているようだ。 「お邪魔しまーす……」 そっと滑り込み、もう一枚のドアに近寄る。この奥はパソコン室か何か だろうか。 ドアノブをゆっくり回そうとした瞬間、突然ドアが押し開けられた。 ガンッ 「いっ……」 見事に快斗の額にぶつかったドアは、反動でもう一度閉まった。 「あ、あれ?」 ドアが今度は数センチだけそろりと開いて、向こう側から焦ったような 声が聞こえてくる。 「今誰か……うわっ、すみません! ……って、黒羽?」 ドアの隙間から顔を出して謝ったのは、工藤新一だった。 「よ、よぉ……」 「何してんだ、こんなところで」 新一が部屋から出てきてドアを閉めた。白衣を着ている。 「いや、工藤いるかなって」 「そうか、研究室近くなんだもんな」 「ついでにこの間借りた本返しにきた」 「そっちがついでかよ」 「うん。でも忙しいなら今日は帰るよ」 新一の手にあるノートパソコンを見て言う。 すると新一は壁の時計を見上げ、少し考えるように言った。 「いや、今日はどうせもう終わりにするところだし……そうだ、この後 俺ん家来ないか? 飯一緒に食おうぜ」 「工藤ん家? いいの?」 「おー。コナンの世話で戻らなきゃなんねーし。あ、でもオメーもキッ ドのこと放っておけねーか……」 「いや、キッドなら平気」 快斗が、肩からかけた黒いトートバッグをちらりと見る。 その視線に、新一は目を丸くした。 「まさかオメー……」 「今日は講義一つだけだったからさ」 「だからってオメー、大学に連れてくるなんて……」 「平気平気。こいつ大人しくしてくれるからバレないし」 「ったく……」 新一がトートバッグに顔を寄せる。 「こんな狭いところに入れられちまって……ちょっと待ってろ、な」 そう言うと新一は今出てきたばかりの奥の実験室へと再び入っていき、 すぐに荷物を持って出てきた。羽織っていた白衣も脱いでいる。 「よし、行こうぜ」 「……本当に良かったのか?」 快斗は念を押すように尋ねた。何せ、新一が荷物を持って出てきた時、 ドアの向こうから引き止めるような悲愴な声がいくつも聞こえてきたの だ。 「大丈夫大丈夫」 軽く手を振って先に行ってしまう新一を追いかけるように、快斗も研究 室を後にした。 建物から一歩出てしまえば、キャンパス内はペット連れでも問題ない。 トートバッグのジッパーを全開にすると、待ちかまえていたように白い 毛玉が頭を覗かせた。 「おー、キッド。本当に入ってたんだな」 声に反応して、キッドが新一を見上げる。 「電車に乗るから、もう少しそこで我慢してな」 「みゃー」 返事をするように鳴いて、キッドは大人しくじっとしていた。 「……かしこい猫だな」 感心したようにキッドを観察する新一に、快斗は苦笑した。 「こいつ、最初からこんなんでさ」 「確か、拾ったって言ってたな」 「そう。土手をジョギングしてたら見かけて。何か弱ってそうだったか ら気になって近づいたら、自分は平気ですみたいな顔してそっぽ向くん だ。猫の癖にポーカーフェイスが上手いんだよ」 「へぇ……」 「だから俺に飼われてるっていう状況に今のところは甘んじてるけど、 俺のこと主人だとは思ってねぇんじゃないかな」 ひでーよなぁ、と冗談めかして笑う快斗を、新一の双眸がじっと見つめ た。 「それは、黒羽がこいつを従わせようと思ってねぇからじゃねーの?」 「え?」 「黒羽とキッド見てると、ペットと飼い主っつーよりも……同居人?に 見える」 「同居人て……こいつ猫なんですけど」 「だぁから、オメーがキッドを猫らしく扱ってねーんだって」 「えー?」 新一の言わんとすることはよく理解できなかったが、とりあえず、普通 の飼い主とペットの関係というのとは少し違って見えるらしい。それは、 二人の間に執着や愛情が感じられないとかそういうことではなくて、互 いの望みを理解し尊重し合うような、絶妙な信頼関係が成立しているか らなのかもしれない。 例えば、互いが互いの一番ではないということを理解している、という ような。 工藤新一の家は、まさしく工藤邸と呼ぶに相応しい様相の洋館だった。 物々しい門を開くとセンサーで明かりが点灯し、玄関を開けると軽い足 音と共に黒い子猫が廊下を駆けてきた。 出迎えた子猫は新一の足に纏わりつき、しかし来客があることに気づき 快斗へと頭を向けた瞬間、垂れていた尻尾がピンと跳ね上がり、毛がぼ わっと逆立った。いや、正確には快斗のトートバッグから覗く白い猫を 見た瞬間、というべきか。 「みゃ゛ー!」 「こらこら、威嚇すんなって」 身体を低くして毛を逆立てたコナンを、キッドはバッグの中からじっと 見下ろしている。 「コナンはキッドが苦手なんだな。何かごめんな」 「気にすんなって。別にキッドが何かしたわけじゃねーし。さ、上がれ よ」 コナンがずっとそんな調子なので、リビングに通されてからも快斗はキ ッドをバッグから出すことを躊躇った。だがそれを察したのか、新一が バッグに手を差し入れて、キッドを抱き上げた。 「本当に綺麗な猫だな、お前。コナンと仲良くしてくれるか?」 「にゃー」 「そっか。俺ともよろしくな」 「……えーと工藤、こいつの言ってることわかんの?」 「いや、何となく」 新一がキッドを床に降ろしてやると、キッドはゆっくりとコナンに近寄 っていった。 「さて、と。飯どうすっかな。何か食いたいもんあるか?」 「作るのか? 手伝うよ」 「おー。助かる」 二人で並んでキッチンに立つ。 こうしていると、まるで恋人同士のようだ、とふと思って、そうと気づ いたら急に鼓動が速くなった。 今まで曖昧なまま誤魔化したけれど、これはもしかして、自分は彼に恋 をしているんじゃないだろうか。 快斗が悶々としながら玉ねぎを切っていると、突然、コナンの鋭い鳴き 声が上がった。 吃驚して快斗と新一は顔を見合わせ、慌ててキッチンから出る。見ると、 キッドがコナンに襲いかかろうとしていた。 「おいっ、キッド!」 快斗がキッドを怒る。後ろからひょいと抱き上げると、暴れはしなかっ たもののフーフー唸り声を上げた。 「何やってんだよ……」 せっかく恋心を自覚したというのに、キッドのせいで新一が快斗に会い たがらなくなるのではと不安になる。が、ちらりと窺うと、当の新一は 全然気にしていないようだ。 それよりも、キッドを興味深げに見ている。 「えーっと……どうかしたか?」 「うーん。キッドはコナンのことが好きなんだな」 「え……」 「それにコナンの方も満更じゃなさそうだ」 納得したようにうんうんと頷いて言う新一に、快斗とキッドはパチパチ と瞬いた。 「え、キッドはともかく、コナンは嫌がってるようにしか……」 「いや、そうでもなさそうだぜ。まあ、俺の勘だけど」 簡単にパスタを作って、二人で向かい合って食べる。 二人の足元には、キャットフードを食べる二匹の猫。一つの皿から、額 を擦り合いながら分けあって食べている。 「こうしてると仲良さそうだよな」 「ああ」 キャットフードが全部なくなると、キッドは皿を一舐めし、コナンの鼻 先をくんくん嗅いでからぺろりと舐めた。 「!」 コナンはぴしりと固まったが、キッドは素知らぬ顔で座り直すと、毛繕 いを始める。 その様子を一部始終見ていた新一は堪えるようにくすくす笑った。 「キッドはコナンのことが好きなんだな」 それはさっきも聞いた言葉だったが、快斗はようやくその言葉の意味に 気づいた。それは単なる友好ではなく、異性に向けるような、まさしく “好意”なのだと。 気づいた途端、快斗は噎せた。 「えっ、ちょ……こいつらオスだろ?」 「だな」 それが何だという様子の新一に、快斗は口を噤んだ。猫とは言え、同性 同士ということに抵抗はないのだろうか。 なら、人間ではどうなのだろう。男同士、をどう思っているのか。 「こいつらくっついたらどうする?」 「え、どうするって……」 おもしろそうに二匹を観察している新一を前に、快斗はその状況を想像 してみた。 引き離そうとするとごねて嫌がる二匹。こりゃしかたないなと苦笑し合 って、どちらかの家に泊まることになる。一緒にご飯の支度をして、食 卓を囲んで、猫を撫でながらのんびりリビングで過ごして――。 「黒羽?」 ハッと我に返る。にやけてなかったかと、思わず頬を触って確認した。 再び猫に視線を戻した新一を見ながら、想像の中の自分たちを思い出す。 まるで家族みたいだなと思って、胸のあたりがほっこり温かくなったの だった。 2014/01/13 |