「う〜〜〜間にあうか〜? いや、間に合わせる……!」
いつものように喫茶店に来ていた快斗は、しかし、いつものように本
日のおすすめケーキを食べる間もなく、持ち込んだノートパソコンに
齧りついていた。
レポートの期日が早まっていたのを、今日まで知らずにいたのだ。
友人との会話でたまたまレポートの話が出て、慌てて図書館で資料を
かき集めてここに来た。
そのまま図書館で作業してもよかったのだが、キッドの餌のことがあ
ったのと、あのどこか冷たく重い静寂の落ちる図書館に長時間一人で
いるのに気が滅入りそうだった。
キッドはというと、そんな主人をどこか呆れたように見ながら、向か
いに座っている。時折中央スペースで戯れる他の動物たちを何とはな
しに眺めているが、その中に交ざる気はないようだった。
キッドは元は野良猫なのに、妙に気位の高い猫だ。特に興味をそそら
れるものがなければ、他の動物たちがじゃれ合っているところに身を
投じようとはしない。こうして少し離れたところから優雅に傍観する
のが基本的なスタンスだ。
その澄ました様子が他の猫にどう映るかはわからないが、とりあえず
メスには大層モテる。
快斗と共にいる時は大抵傍でじっとしているが、犬のように忠誠心が
あるわけでもない。快斗が呼びかけても三回に一回は無視するし、気
に入らないことがあれば遠慮なく引っ掻いてくる。
結構似たもの同士かもな、と快斗は思っている。
ペットが飼い主に似るのか飼い主がペットに似るのかはわからないが、
モテるわりに一人の心地良さが好きな者同士、一緒にいるのが楽なの
かもしれない。
――シャララ
ウィンドチャイムが鳴る。
今日は結構お客さん多いな、と思いつつふとパソコンから目を上げる
と、視界の隅に彼の人が映って驚いた。
申し訳なさそうな顔で謝るマスターと、苦笑して首を振る彼。
店内をさっと見回して、状況を理解した。
(満席か)
中央に動物用のスペースを取っているせいで、元々席数の多い店では
ない。
少し前にチワワを連れた五人組の女性客が入ってきて、あっという間
に満席になったのだ。
快斗はばつが悪くて、思わずキッドを見た。紅茶だけで何時間も粘っ
て作業をする快斗のような客は、あまり歓迎されないだろう。
キッドも快斗を見た。その瞬間、快斗は立ち上がっていた。
「あの」
声をかけた快斗を、彼はゆっくりと振り返った。
初めて、目が合う。
「えと、その……相席でよければ」
彼は軽く目を見開き、それから快斗が座っていたテーブルを見た。
キッドはすでに座席を空けるように椅子から降り、床に行儀良く座っ
ていた。
「……あ! すぐ片付けるから……ちょっと、待って」
狭いカフェテーブルの上を占拠していたノートパソコンと資料と紅茶
のカップに、快斗はしどろもどろになりながら言う。いつもはろくに
考えずともすらすら出てくる気の利いた言葉が、何故か上手く形にな
らなくて焦った。
慌てて散乱していた資料を片付け、テーブルのスペースを半分彼のた
めに開ける。
すると彼はくすっと笑い、「ありがとう」と言って快斗の向かいの椅
子に腰掛けた。
「なんか悪いな」
「いや、そんなこと……」
初めて間近で見る彼の微笑に、心臓がドキドキする。緊張なのか何な
のか、掌に汗が滲んできた。
だって彼の綺麗な瞳は今快斗に向けられていて、しかも微笑みかけら
れているのだ。
この4ヶ月間、一度も目が合わなかったのが嘘のようだ。
彼の肩には、黒い子猫が乗っている。
いつものように彼の膝に降りないのかと不思議に思って見ると、黒猫
は若干毛を逆立てて下方を睨みつけるように見下ろしていた。その視
線の先には快斗の猫、キッドがいる。
「ん? どうした、コナン」
彼も飼い猫の様子に気づいたのか、肩を揺らさないように子猫の顔を
覗きこんだ。
対してキッドはというと、これでもかというほどに首を伸ばし、黒い
子猫を見上げていた。常に澄ました様子のキッドには珍しく、しっぽ
をぱたぱたさせてにゃーにゃー鳴いている。
「キッド?」
快斗の呼びかけは華麗に無視された。
子猫の方はすでに威嚇の姿勢に入っているというのに、キッドは気に
した風もなく、いやむしろ一層近づきたそうににゃーにゃー鳴いてい
る。
「こらこら、コナン」
彼は子猫を宥めるように撫でて、ようやく落ち着かせた。
それから快斗を見て困ったように笑う。
「ごめん、普段は他の猫に威嚇するような奴じゃないんだけど……」
「いやいや、こちらこそ。うちのキッドもこんなに鳴くの珍しい」
前から興味を持ってたからな、と心の中だけで呟く。
「キッドっていうのか、その猫」
「うん。そちらの美人さんはコナン――くん? ちゃん?」
「オス」
「かわいいなぁ」
相席とはいえ初対面であまり話しかけるのも鬱陶しがられるといけな
いから、作業に戻る。レポートの締切がぎりぎりなのもあることだし。
彼はコーヒーをすすりながら、ようやく恐る恐る膝の上に降りてきた
コナンを宥めるように撫でていた。
コナンはそれに気持ちよさそうに目を細めながらも、いまだキッドへ
の警戒は解いていないらしく、ちらちら視線をやって気にしている。
キッドのはというと、今は大人しく座っているが、機会を伺っている
と言わんばかりにしっぽがゆらゆらと揺れていた。
時間はあっという間に過ぎ、快斗がふと顔を上げるとすっかり日が暮
れていた。
周りに空席もあったが、彼は相変わらず向かいの椅子に座っており、
本を読んでいる。
コナンとキッドはそれぞれ膝の上と足下ですやすや眠っていた。
期待以上にレポートも捗り、あとはまとめるだけだからと快斗はパソ
コンを静かにしまい、紅茶のおかわりを注文した。
そして新しい紅茶に角砂糖を五つ入れたところで、彼が本から顔を上
げた。
「あれ、もういいのか?」
パソコンをしまったことに気づいて、彼が問う。
「うん。もうほとんど終わってるから」
「大学生か?」
「そう」
彼はどうなのだろう。年はそう変わらない気がしたからついタメ口で
話していたが、学生なのだろうか。
「あの――」
「んにゃー」
遮られるように鳴き声がした。見ると、コナンが目を覚まして頭を飼
い主の腹に擦りつけるようにすり寄っていた。
それとほぼ同時に、足下で白い毛玉がむくりと起き上がる。
「キッド。お前も起きたのか」
だがキッドは主人には目もくれず、彼の膝で眠るコナンをじっと見て
いる。
「よっぽど気に入ったんだな」
「はは、光栄だな」
彼がそっとキッドへ手を伸ばす。
キッドが他人に撫でられるのをあまり好かないのを知っている快斗は
咄嗟に止めようと口を開きかけたが、予想を裏切って、キッドは大人
しく彼の手を受け入れた。頭から背中を辿るように撫でられるのに気
持ちよさそうに目を瞑る。
「本当に珍しい……」
もしかして、コナンの飼い主だからだろうか。
快斗はこっそり彼を見た。
彼は穏やかな微笑みを浮かべてキッドを撫でている。
その表情に、とくんと鼓動が鳴った。
「にゃぁ」
「コナン、そろそろ帰るか?」
「にゃ」
「ということで、俺たち帰るな」
「あっ、俺らも出るよ」
釣られるように立ち上がると、キッドも伸びをした。
快斗が荷物をまとめている間に、彼はさっさと出口に向かってしまっ
た。その手に伝票が二枚あることに気づいて、快斗は慌てて追いかけ
る。
「ちょっと待ってっ」
「いいからいいから」
「でも……」
「相席させてくれたお礼。な?」
「……わかった。ご馳走様です」
マスターに軽く挨拶をして、揃って店を出る。
「じゃあ、俺たちはこっちだから」
「あ、うん」
「またな」
「うん、また」
軽く手を上げて別れ、別々の方向に歩き出す。少ししてこっそり振り
返って、遠ざかっていく彼の背を見送った。
2013/04/21
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