(10)
「はぁ………」
快斗は無意識に盛大な溜息を吐いていた。
「黒羽さん、お疲れですか?」
「えっ」
「溜息吐いてましたから」
快斗の髪をセットしていたヘアスタイリストが、気遣うように言う。
「連日の撮影お疲れ様です。それとも、何か悩みがあるんですか?」
「え、ああ、いや。ちょっと演技のことを考えてただけだよ」
「黒羽さんの怪盗キッドははまり役ですね。すごくカッコいいって評判ですよ」
「ありがと」
手は止めずに、彼女が楽しそうに言う。
「工藤さんとの相性もいいみたいですね」
「えっ」
突然、頭の中を占めていた人物の名前が出てきて、どきっとする。
「……そう思う?」
「ええ。以前何度かお仕事見させてもらったことありますけど、工藤さんがあんなに楽し
そうに話してるの、初めて見ました」
「そうなんだ……」
「プライベートでも親しいって聞きましたけど」
「えっ。何で知ってるの?」
「現場のスタッフは皆さん知ってますよ。お二人ともすごく仲良さそうで、目の保養とい
うか、お二人のおかげで現場の空気が和んでるんですよ」
「そ、そうだったんだ」
他人からそんなふうに見られていたかと思うと、少し気恥ずかしい。
「工藤さんって、優しい方ですけど、どこか近寄りがたいというか、他の共演者の方々と
もほとんど事務的な付き合いしかされてなかったんですけど。黒羽さんは特別みたいです
ね」
特別。そんなふうに言われて嬉しくないわけがない。
自分が、工藤新一の一番近くにいるという優越感。
思わずにやけそうになった口元を慌てて引き締めた。
「おはよう、黒羽」
「あ、工藤。おはよう」
今朝起きた時には、すでに新一の姿はなかった。
テーブルの上にメモと、ポストの中に鍵が入っていて、それを見た時何となく、恋人が泊
まりにきた後のような、言い知れない気分になった快斗だった。
「今日のスケジュールは、と……飛行船の上でのお前とのやりとりに……飛行船内での俺
のアクション、お前がスカイデッキに飛び降りてくるシーンと、俺と藤岡との対決シーン
だな」
「あと、ラストの俺が去るシーンもな」
「これ全部時間通りに終わるか?」
「んー、今日中に終わんなきゃ明後日からのビーチロケの時間がなくなっちまう」
「ああ……佐久島まで行くやつな」
「早く終わらせたらビーチで遊べるよ!」
「お前な、この季節にそれは無理だろ……」
呆れたように苦笑する新一だったが、その目は優しかった。
「黒羽くーん、ちょっとちょっと」
振り返ると、監督が手招きしていた。
「? 何ですか?」
快斗が近寄っていくと、監督はちらりと快斗の背後を確認してから、周りから見えないよ
うに一枚の紙を渡してきた。
「何……え゛っ」
「しーっ!」
監督が人差し指を立てて「しーっ」のポーズをする。恐ろしく似合わない。
「なっ、何ですかこれ!」
声を抑えて問うと、監督はよくぞ聞いてくれましたとばかりににんまり笑った。
「ね、お願い」
「えっ、でもこのこと工藤は……」
「言ったら怒られそうなんだもん」
だもん、て……と快斗は顔を引き攣らせる。
「大丈夫、何人かのスタッフは知ってるからさ」
よろしくねと言われれば、監督の頼みを断ることはできない。
快斗はぎこちなく頷いた。
***
身体にロープをつけてのアクションシーンは昨日のうちに慣れてきたからか、ほぼ予定通
り撮影は進んだ。
そして今日の最後のシーン、事件が解決し、怪盗キッドが去る場面に移った。
『やっぱ透けない、か』
薄暗いスカイデッキに一人佇み、いつもより少し近づいた月に指輪を翳す。
けれど赤く光ることのないラピスラズリに、キッドは落胆のため息を吐いた。
『キッド』
背後から呼びかけられて、振り向く。エレベーターの前に佇む名探偵。
『……名探偵。いたのか』
『ああ。大方ここにいるんじゃないかと思ってな』
『二人きりの逢瀬にはぴったりの場所だろ?』
『ったく、何が逢瀬だ』
呆れたように呟いて、探偵が近づいてくる。
指輪の台座の前で、数メートルの間隔を開けて向かい合う。
月の光が差し込み、まるでスポットライトのように二人を照らした。
『名探偵……』
徐に、怪盗が二人の間の距離を縮めた。
藤岡にやられたこめかみに巻いてある包帯をそっと撫でる。
『キッド?』
『この傷……また無茶して』
突然の近い距離に当惑する探偵のこめかみに、キッドが唇を寄せた。包帯越しに伝わる熱
に、探偵は慌てふためく。
『なっ、何――』
離れようとして突き出した両手は、しかし、あっさりと怪盗に捕まえられた。
「えっ?」
掴まれた手首を逆にぐいと引き寄せられ、怪盗の顔が近づく。
気がついた時には、二人の唇が重なっていた。
(…………え?)
いつのまにか腰に手が回され、頬に手が添えられている。
新一は頭が真っ白になり目を見開いたまま固まっていた。
そのまま何秒たったのかわからないが、触れた時と同じく唐突に唇は離れていった。同時
に腰に回されていた腕も緩む。
怪盗は一歩下がると、新一の手を取って跪いた。
『怪盗は盗む者。たとえそれが人の心だとしてもね』
『キッ……』
探偵が何か言う前に、怪盗は軽く手にキスを落とすと、華麗なワイヤーアクションで去っ
ていった。
新一は次に言うべき台詞を言おうとして、思いなおした。
代わりに、少しだけ不機嫌そうに眉を顰める。
『ったく、予告なしに唇奪っていきやがって……ん?』
いつの間にか指にはめられていた天空の貴婦人に気づく探偵。
しかし、それがはめられていた指を見て、新一は一気に頬が熱くなるのを感じた。
「なっ……」
慌てて外す新一を、カメラはしっかり捉えていた。
***
「く〜ろ〜ば〜!!」
「わっ、工藤っ」
「何だよっ、さっきのアドリブは!!」
「ア、アドリブじゃなくて、だって監督が〜〜〜」
「監督ぅ?」
さっと振り返った新一の鋭い眼光に恐れをなして、スタッフが散り散りになる。
「監督、一体どういうことですか」
「いや、だって展開的に絶好のチャンスじゃないか!」
「何のですか」
「キスの」
悪びれずに言ってのけた監督に、新一は深くため息を吐いた。頭痛までしてきた。
「……まったく。別にこんな不意打ち企まなくても、キスくらいしますよ。僕だって役者
なんですから」
「それはそうなんだけどさ、それじゃ面白くないじゃない!」
「は?」
「不意打ちでキスされて本当に驚く工藤君が見たかったんだよ!」
「せめて『見たかった』じゃなくて『撮りたかった』って言ってください」
アドリブはよくあることだが、キスのアドリブは初めてだ。
本当ならこめかみへのキスでキッドを突き放し、そのままキッドの『怪盗は盗む〜』の台
詞に続くはずだったのだ。
しかも、指輪をはめる指も、右手薬指だったはずが左手薬指になっていたしで、色々と予
定外の演技をカメラに映させてしまったことに少し落ち込む。
「まあまあ、工藤。いいじゃん、これくらい展開進ませないと視聴者が焦れちゃうよ」
「お前は開き直りすぎだ、黒羽! 大体、お前はよかったのかよ、その、」
「うん?」
「俺と……キス、なんか」
「うん」
「うん、て……」
あまりにあっさり頷く快斗に、新一は拍子抜けた。快斗は元々役者でもないのに、仕事な
らば男とキスするのも気にならないと言うのだろうか。
けれど快斗の続く言葉に、新一は言葉を失った。
「よくわかんねぇけど、何か工藤とだったらいいかな、って」
「なっ……」
赤くなった新一と事の一部始終を、スタッフは内心黄色い悲鳴を上げながら見守っていた。
続
快斗はまだ自覚してません。たぶん。
新一は自覚済み。
2012/08/23
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