最近、快斗がおかしい。

新一は少し冷めたコーヒーを一口啜ると、二階の快斗の部屋の方向を
見上げた。
カチャリとカップをソーサーに戻して、ふむと手を顎に添える。

そもそも、新一がこうしてリビングにいるというのに、彼が自室に籠
もっているのがまずおかしい。
同棲を始めた時に一室貸してあるが、快斗はほとんどの時間を新一と
共にリビングで過ごしていたし、夜は、まあ、ダブルベッドを入れた
新一の寝室で一緒に寝るので、快斗の部屋はもはや私物を置くためだ
けのスペースとなっていたはずだ。

しかし9月に入ってからだろうか。快斗は新一が家にいる時でも部屋
にこもりがちになった。
最初はキッドの仕事関係の準備でもしているのかと思っていたのだが、
警視庁に探りを入れてみても予告状が出される気配は一向にないし、
本人にさりげなく聞いてみても、ここのところ目ぼしい獲物がないの
だと言っていた。

「うーん……」

思わず唸り声をもらすと、リビングの扉がガチャリと開いた。

「何を唸っているのよ」
「灰原か」
「いるんなら出なさいよ。チャイム鳴らしたのよ」
「え、悪ぃ」

哀は呆れたように息を吐きながら、すたすたと書斎へ向かった。以前
貸した本を手にしているから、それを返しに来たのだろう。

そして数分で戻ってきた哀の手にはまた別の本があった。

「これ、借りてっていいかしら」
「ああ。コーヒー飲むか?」
「ええ、いただくわ」

哀専用のカップを食器棚から出す新一の後ろで、哀が珍しそうに見回
した。

「黒羽君はいないの?」
「いるぜ。自分の部屋にいる」
「自分の部屋?」

哀が少し目を見開いた。
快斗があまり新一から離れたがらないことを知っているせいか、やは
り自室にこもっているというのは純粋に驚きだ。
まして、新一は思考に沈んでいてチャイムに気づかなかったとしても、
快斗が来客を無視するなんてちょっとありえない。客が哀だと気づい
ていたなら尚更だ。

それに。

「気配がないけど」
「あー。あいつ時々無意識に気配消したりするんだよ。何か企んでる
時とか、予告状書いてる時とか。本人も気づいてないみたいだぜ」
「でもそれって……」

哀の言わんとしていることに気づいて、新一はハッとした。

「……何かやましいことしてるってことか……?」
「まあ、あの人のことだから、単純に何かイベントごとのサプライズ
でも企んでいるのかもしれないわよ」
「イベント……」

9月にイベントなんかあったか?と首を傾げる新一だった。





翌日の放課後、新一は警察からの要請で警視庁の交通課を訪れていた。
交通事故として処理されそうになっていた件が、トリックを使った殺
人事件であることがわかったのだ。
新一がいつもどおりに難なくトリックと犯人を暴くと、現場に立ち会
っていた由美が感心したように話しかけてきた。

「あいかわらずすごいわね〜、工藤君。さすが、コナン君の師匠ね!」
「い、いえ」
「しっかし、男女の恋愛のもつれってのは怖いわねー。恋人が別れを
切り出そうとしていたことに気づいて殺しちゃうなんて……」

犯人の男は恋人の心変わりに気づいて、別れを告げられる前に殺人に
及んだ。被害者が近々別れを切り出そうとしていたことは、相談を受
けていた友人が証言した。

「でも僕にも一つだけわからないことがあるんですよ。犯人は『別れ
話をしにきた彼女』を衝動的に殺害したと言っていましたが、どうし
て犯人は、彼女が別れ話をしにきたとわかったんでしょうか? 殺害
の経緯としては、話をする前だったはず……」

もしかしたら早とちりということもあったかもしれないのだ。
自分ならまず快斗に聞いてはっきりさせるだろうな、と想像する。

すると、由美は少し驚いたような顔をしてから、苦笑を浮かべた。

「そっかー、工藤君みたいな男子高校生は知らないか」
「へ?」
「明後日の9月14日は、セプテンバー・バレンタインなのよ」
「セプテンバー・バレンタイン?」

バレンタインと言ったら2月だよな、と新一が首を傾げると、傍で会
話を聞いていた佐藤が思い出したように言った。

「ああ、聞いたことあるわ。確か、女性から別れ話を切り出してもい
い日、じゃなかったかしら」
「そうそう。これはあまり知られてないけど、切り出す時のルールも
一応あって、紫色のものを身につけて、白いマニキュアを塗って、緑
色のインクで別れの手紙を書くのよ」

そういえば被害者の女性は、紫色のスカーフを巻き、ネイルもベース
は白だった。

「それでマンションの部屋に残されていた何気ない書き置きのメモが
グリーンのペンで書かれてたりしたら、勘ぐっちゃうわよね」

犯人の男は女性向け雑誌の編集部で働いていたし、そういう女性が好
きそうなイベントに関しては敏感だったのかもしれない。

「……なるほど」

その後同期の噂話に会話がシフトした二人を余所に、新一は納得した
ようなしないような、微妙な表情を浮かべた。







「ただいまー、と、灰原来てんのか」

玄関に置いてある靴を見て呟く。
リビングの方からは明かりがもれていて、微かに話し声も聞こえる。
快斗と哀だ。
新一は何となく、気配を消した。

そしてドアに手を掛けたところで、快斗の心配そうな声が聞こえてき
た。

「新一怒るかなぁ。新一の冷たい目が想像できる……」
「じゃあ止せばいいじゃない」
「今更無理! ……まあ、ちゃんと説明すれば俺の気持ちもわかって
くれるはず……」

尻つぼみになる快斗に、哀が大きく深いため息を吐く。

怒る? 快斗の気持ち?

少し前に由美に聞いたセプテンバー・バレンタインのことが、新一の
頭の中で俄かにリフレインする。

ドアノブに手をかけたまま固まっていた新一は、哀の軽い足音に我に
返った。

「ただいま」

ドアを開けると、ちょうど目の前に哀が立っていた。

「あら、お帰りなさい」
「おかえり〜」

そう言って駆け寄ってくる快斗は、普段と何ら変わった様子はない。

「先に風呂入っておいでよ。今ご飯できるから」
「ああ、サンキュ」

新一は荷物を置きに自室へ上がると、薄暗い室内の中でベッドに身を
投げ出すように寝そべった。
目を閉じると、快斗の紫紺の瞳が浮かび上がる。

「9月のバレンタイン……快斗………」


その夜、快斗は遅くまで自室にこもり、新一の寝室にやってきたのは
真夜中になってからだった。








翌朝、キッチンで新一のためにコーヒーを入れ朝食を作る快斗に、や
はりどこも不自然な点はなかった。
無理して笑顔を作っているわけでもなさそうだ。

しかし相手は天下の怪盗キッド。
たとえ自分の洞察力をもってしても、快斗の渾身の演技を見破る自信
はなかった。
その笑顔の裏で別れの切り出し方を考えているのだとしたら。

昨夜から不安が治まらなくて、そんな新一の浮かない顔に気づいた快
斗が心配そうに覗きこんでくる。

「新一、大丈夫か? もしかして具合悪いとか……」
「いや、ちょっと事件のことでな。考え事してただけだ」
「そっか………」

一応納得した様子の快斗は、思い出したように言った。

「そういえば俺、今日は放課後に用事があってさ。ちょっと遅くなる
かもしんない。夕飯は冷蔵庫に入れといたから、温めて食べてな」
「ああ、わかった」
「少しでも体調悪かったら哀ちゃんに言うんだぞ」
「大丈夫だって!」

ぐるぐる考えているのは自分らしくない。
それならば探偵らしく、自分で調べればいいだけだ。







午後の最後の授業をサボって(迫真の演技で体調不良を装った)、新
一は江古田高校に来ていた。正確には江古田高校の校門が見張れる近
くのカフェに入り、奥の窓際の席に陣取った。

自分がその容姿と知名度ゆえに目立つことは自覚していたので、一旦
家に帰り、着替えた上での張り込みだ。
帽子と眼鏡だけでは、あの変装の名人相手に心許ないので、念のため
に母親の衣装ケースから引っ張り出した茶髪の鬘も被った。

しばらくして江古田高校のHRが終わる頃になると、ぞろぞろと下校す
る生徒たちの中で、一際華やかな一団が現れた。
華やかと言っても見た目ではなく雰囲気の問題で、それは主に一人の
生徒――他でもない快斗によって醸し出されていた。

立っているだけで華がある――いや、と新一は目を凝らした――実際
に花が飛んでいる。歩きながら、周りの生徒たちにマジックを披露し
ているのだ。花がどこからともなく飛び出すたびに、歓声が上がる。

その時の快斗の楽しそうな顔に、新一はむっと唇を引き結ぶ。
あまり見つめすぎると視線でばれそうなので、ゆっくり視線を手元の
雑誌に落としながら、同時に嫉妬心も鎮めようとした。

快斗を含む数人の男女の集団は校門を出ると、駅の方へと歩いていっ
た。そこには新一も知っている面子――幼馴染の青子や、白馬、紅子
など――は見当たらなくて、一体どういうグループなのだろうと考え
る。

カフェを出て、十分に距離を取りながら尾行する。

快斗とて、クラスの友人たちと遊びたい時もあるだろう。
むしろ今までほとんどまっすぐ工藤邸に帰ってきてたのが不思議なく
らいだ。男子高生らしくゲームセンターにでも行くのなら、確かに例
の面子が含まれていないのも頷ける。

しかし彼らは駅前のゲームセンターの前を素通りした。
少しほっとしたのは、その後すぐ、グループの中にいた女子生徒は彼
らと別れ、駅に向かったことだ。

男だけとなった残りのメンバーは、連れ立って駅前の服屋へ入ってい
った。

「何だ、ただの買い物か?」

拍子抜けしながらも後を追うと、彼らは若者向け男性用下着の売り場
に入っていった。
友人と一緒にパンツを買いに行く感覚は新一には理解できなかったが、
彼らにとっては普通なのかもしれない。

これはますます、自分の下着を買いにきただけかと取り越し苦労に溜
息を吐きそうになったところで、一枚のパンツを手にとり食い入るよ
うに見つめる快斗に気づいた。明らかに、目の真剣さが他の男たちと
は違う。

そんな快斗に連れの一人が声をかけた。

「おい黒羽、それにするのか?」
「うーん……うん。この色ならいいかな」
「こういうのはどうだ?」
「あ、その色は駄目」

快斗にパンツの色のこだわりなんてあったのかと、新一は遠目ながら
訝しげに見やると、その手に握られたパンツを見て息を詰めた。

紫。

下品な派手さはない、深い紫色のパンツ。


『紫色のものを身につけて――』

由美の声が脳内で再生される。

新一は顔を強張らせると、逃げるようにその場を去った。







食欲はまるでなかったが、抜いたとバレると隣人が恐いため、快斗が
用意してくれた夕飯を少しでも口に入れる。

明日は14日。もしかしたらこれが快斗の料理を食べられる最後の機
会なのかもしれないと思うと、一人で食べていることがますます寂し
くなった。

その夜は快斗が帰宅する前にベッドに入った。
まだ小学生も起きているようなだいぶ早い時間だったが、その後程な
くして帰宅した快斗は、暗い新一の部屋を覗いた後自室に戻ってしま
い、ベッドにもぐりこんでくることはなかった。