従業員エレベーターが最上階のラウンジに着くと、新一は目立たぬ
よう壁際を通り、バーカウンターの中に入った。
「イヴァン、下のヘルプに駆り出されてたんだって? お疲れ」
「ああ」
バーテンダーが小声で話しかけてくる。
イヴァンというのは新一が変装した相手だ。今日は非番になってい
たところを、シフト表をハッキングして改竄し、潜り込んだのだ。
イタリア人にしては寡黙で、職場に親しいと言える友人もいない。
限られた準備期間の中で、新一がなりかわるには打ってつけの人物
だった。
快斗のテーブルへ目をやると、一瞬だけ目が合った。
バーに二人組の男が近づいてくる。
マッジョーレの傘下のファミリーの人間だ。頭の中のデータベース
と即座に照らし合わせる。
「赤」
不愛想に短く告げられて、新一はワインのコルクを抜き、とぷとぷ
とグラスに注いだ。
「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノです」
男が頷いて受け取る。
するともう一人は思案するように言った。
「俺は何かカクテルを頼む」
「かしこまりました」
バックバーからゴブレットグラスとカンパリの瓶を取る。氷をいく
つかグラスに入れてから、カンパリを目測で45ml注ぐ。さっと
布で瓶の口を拭い、ラベルが見えるようにカウンターに瓶を置いた。
それからグレープフルーツジュースとトニックウォーターを同量ず
つ注いでバースプーンでステアすると、カンパリの深いルビーレッ
ドが鮮やかなベゴニアオレンジに変わり、表面に炭酸の泡が浮いた。
グラスの縁にレモンを飾って、興味深げに見ていた男の前に、カウ
ンターの上を滑らせる。
「スプモーニです」
「スプモーニ? スプモーニって言ったらアイスクリームだが……」
「カンパリのほろ苦さがグレープフルーツとトニックによく合いま
す。気取りすぎず甘すぎない、こ洒落た雰囲気が貴方様にぴったり
かと」
「ふぅん……悪くないな」
一口飲んで男はそう言うと、もう一人の男と連れだって賑わってい
る方へと歩いていった。
その背を見送っていると、もう一人のバーテンダーが近寄ってきた。
「イヴァン……お前、何か作り方変えたか?」
そう言われて、新一は内心どきりとした。もちろん顔には出さない。
「……そうか?」
「ああ。お前、普段はコリンズグラスばっかりでゴブレット使いた
がらないのに、今日はどうしたんだ? ステアも見たことないスタ
イルだったし」
「……新しいスタイルを研究中なんだ。グラスももっと色々使って
みようと思っている」
「なるほど。良い心がけだな。ところでさっきのステア、俺にも教
えてくれよ」
「後でなら」
次の客がやってきたため、小声でのやり取りはそこで終了した。
快斗の方を見ると、また目が合う。
心配の色を浮かべた目に、大丈夫だというように小さく頷いた。
快斗のようにディーラーとして潜り込めない以上、バーテンダーと
してラウンジに潜入するのが最も都合が良かったのだ。
バーは、ラウンジにやってくる人間がほぼ全員、一度は寄る場所だ。
客がカジノに集中し始めれば抜け出すことも容易である。
だがリスクも大きかった。バーテンダーの癖やスタイルは人それぞ
れだ。酒を注ぐぐらいならまだしも、カクテルは正直冒険だった。
ステアくらいなら言い訳できるが、シェイクとなったら誤魔化せな
いかもしれない。
(早めに仕掛けさせておいて正解だったな)
快斗のテーブルの周りにはすでにちょっとした人垣ができていた。
その賑やかさに惹かれたのか、マッジョーレのボスも早速ゲームに
加わっている。
新一は何食わぬ顔で隣のバーテンダーに尋ねた。
「あの台の周りだけ人が集まってるな」
「ああ、あそこね。何でも、さっきからすごい手で上がってるらし
いぜ」
「……いかさま?」
「まさか! これだけカメラがある中で、イカサマなんて無理無理。
それに、誰か一人が勝ってるってんじゃなくて、色んな奴が良い手
来てんだよ。客は『ラッキーテーブル』なんて呼び始めてる」
言った傍から、テーブルから歓声が上がった。
「エース・トゥ・シックスだ!」
「おめでとうございます」
「すごい……!
「あんな手見たことないぞ」
周りの客が興奮気味に囁き合う。
マッジョーレが配当のチップをかき集める様子を見ながら、新一は
微かな笑みを唇に刻んだ。
シャッフルしながらカードの並びを変え、ゲームを操っているのだ、
あの世界一のマジシャンは。
進行も勝敗もスリルも、あのテーブルのすべては今、快斗が支配し
ている。
見ていると、次は別のプレーヤーが勝ったようだ。
「スリー・セブン! まさにラッキーテーブルだな」
バーテンダーがヒュゥと口笛を吹いて言った。
今、ラウンジ中の客の目は、快斗のテーブルに向いている。
誰もがそのテーブルでプレーしたいとこぞって集まり、マッジョー
レもゲームに夢中だ。
***
うまく注目を集めてマッジョーレのボスをテーブルに着かせること
ができた快斗は、怪しまれない程度に細工をしながらカードを配り、
プレーヤーの手を操っていた。
よりプレーヤーをゲームに執着させるために、ディーラーである自
身も、時折ブラックジャックで上がる。
運と、何よりカードを引くか否かの自分の判断に依ると思われてい
るゲームであるから、プレーヤーのイカサマは疑われても、ディー
ラーによる細工は疑われにくい。
途中、新一のバーテンダーぶりに惚れ惚れしつつ、マッジョーレの
様子を観察しながらゲームを進行させた。
同時に、耳からは絶えず情報が流れ込んでくる。
『こうして傘下のファミリー全部集めて誕生パーティーをするのは
久しぶりだな』
『ああ、四年前のボンゴレとの抗争が原因でかなり弱ってたみたい
だし』
『ようやくここまで持ち直したってわけか』
『俺たちのところも巻き込まれて大変だったな』
ラウンジのトイレの前で立ち話をしている別のファミリーの人間同
士の会話だ。
『あの抗争の原因って結局解決してないんだよな?』
『マッジョーレのボスの愛人殺し? ああでも、最近マッジョーレ
がまた何か動き始めたらしいって……』
『本当か? 俺のとこもやっと落ち着いてきたところなのに、また
大きな抗争は勘弁してくれ……』
その時、割り込んで通信が入った。監視組からだ。
『従業員用のエレベーター一基にベルティーニのボスらしき男と部
下を発見! 十六階から乗りこんだみたいだ』
(十六階……プールの更衣室に隠れていたのか)
『エレベーターは十九階に向かってる』
ラウンジの一階下のスイートルームだ。マッジョーレのボスが今夜、
そこに宿泊することになっている。
ということは、そろそろこちらも動くはずだ。
新しくカードを配り終えたところで、マッジョーレの部下がボスに
歩み寄った。
何かを耳打ちし、ボスは盛大に顔を顰めて舌うちした。
――来た。
ちらりと視界の端で新一を見ると、新一も頷き返してきた。
ボスは、せっかく“ラッキーテーブル”に着いたばかりだというの
に、良いところでゲームに邪魔が入って明らかに不機嫌だ。
その様子に快斗は内心ほくそ笑む。
快斗のここでの役割は、マッジョーレにカジノを楽しませて、ベル
ティーニとのリングの取引をできるだけ手短に終わらせること。
二人のボスを引き離して、なるべく密やかにリングを取り返す。
一般客も多くいる中建物内で派手な戦闘は禁物だ。
意識の方向をコントロールする心理戦なら、こちとらプロだぜ、と
快斗は唇を舐めた。
些か乱暴に立ち上がると、「ディーラー、ちょっと抜ける」と快斗
に言い、チップの山をそのままに歩き去った。
そしてバーカウンターの前を通り、部下と共にメインエレベーター
に乗り込んでいった。
『快斗、マッジョーレに盗聴器つけただろ? チャンネル教えてく
れ』
「7だよ」
『サンキュ』
紙幣をゲーム用のチップに交換した時に、袖口に取りつけたのだ。
『ツナ、取引が始まる。いつでも動けるな?』
『もちろん』
『待ちくたびれたのな』
『取引が終わるまでは動かないでくれよ』
『わかってるっての』
活気づいた応酬を聞きながら、快斗は一人、マッジョーレがここに
戻ってくるまでの時間を予想した。
(往復のエレベーターの時間を入れても……15……いや、12分
だ)
それくらいには、このテーブルの魅力に惹かれていたはずだ。
何といっても今日はあの男の誕生日。ギャンブルの結果が最高なら、
普段以上に自制心を放って幸運を求めるだろうから。
快斗はカードをシャッフルしながら、脳内でカウントを始めた。
2013/06/11
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