ゼロ、の合図と同時に新一はホールから抜けだした。

厨房に行くと見せかけて、エレベーターホールを覗く。
ちょうど、マッジョーレのボスが何人かの部下とエレベーターに乗り込
むところだった。

「これから従業員用エレベーターで上にそっちに行く。奪還組も非常階
段で移動してくれ。十七階、ラウンジの三階下のリネン室だ」

廊下を取って返しながら小声で言うと、すぐに返事が返ってきた。

『階段……』

ツナの強張った声に新一は苦笑する。

「三人とも変装してないからな。エレベーターに乗って従業員に出くわ
したらまずい。まだ時間はあるから、ゆっくりでいい」

マッジョーレがこのホテルを会場に指定した以上、従業員に向こうの手
の者が紛れている可能性は否定できない。そうでなくとも、ボンゴレの
ボスと幹部の顔を知っている一般人もいるかもしれない。

三人に変装させなかったのは、初心者に長時間のマスク装着は厳しいか
らだ。
マスクの違和感に気を取られて隠密行動に失敗したら、元も子もない。

だが、さすがに鍛えているマフィアにとっても、この階数を階段で上る
のはきついだろう。

新一は、白い鳥を追って何度も階段を駆け上がっていた数年前の自分を
思い出して苦笑を漏らした。
屋上へ続くドアを開ける瞬間、そこに悠然と待ちかまえているであろう
好敵手に弱みを見せたくなくて、息切れを必死で隠したものだ。

『リネン室かよ』
「寝ててもいいっていう気遣いだぜ?」
『ハッ』

軽口をたたきながら、新一はエレベーターの前で立ち止まった。

「入江さん」
『了解。従業員用エレベーター四基のカメラ、切り替えまであと五秒。
4、3、2、1、0!』

ボタンを押して、一階に来ていた一基に乗り込む。

「乗りました」
『一階廊下のカメラ映像、元に戻すよ』
「はい」

エレベーターが動き出すと、快斗が呼びかけてきた。

『新一、マッジョーレがラウンジに到着した』
「了解。俺もあとちょっとで着く。――リボーンさん、ベルティーニの
人間がカメラに映ってないかチェックしてください。――ビアンキも、
それらしい車がないか見といてくれ」
『ああ』
『わかったわ』


その時、突然エレベーターが減速した。
 
「!」
『新一? どうした?』
「七階で止まった。誰か乗ってくる」
 
言い終わった瞬間、扉が開いた。
 
そこにいたのは清掃員の女性だった。新一が乗っていたことに少し驚い
たようだったが、清掃用のカートを押して乗ってくる。
 
「どうも」
「お疲れさまです」
「何階ですか?」
「八階お願いします」
 
一階分上がるのに数秒もかからない。少しの浮遊感はすぐに収まり、扉
は再び開いた。
 
だが、新一が計画変更の判断を下すのに、それは十分な時間だった。
 
「待て」
 
咄嗟に伸ばした左手で右腕を掴む。
清掃員はゆっくりと振り返った。
 
「何かしら?」
「あんた……ベルティーニ・ファミリーのフィオナ・ランツァだな」
「!」
『新一……!』
 
こちらの会話を聞いている快斗がイヤホンの向こうで息を呑むのが聞こ
える。
 
フィオナ・ランツァは、入江の研究所の襲撃犯の一人で、新一が女性だ
と指摘した腕利きのヒットマンだ。
清掃員用の帽子で隠してはいるが、データベースにあった顔写真と照ら
し合わせればフィオナだとわかる。
 
次の瞬間、フィオナが動いた。
掴まれていない方の腕が服で隠れていた右腰のホルスターに伸びる。

だが、その手が届く前に、フィオナはぴたりと動きを止めた。

いつのまにか、頭に至近距離で銃口を向けられていたのだ。

「やめときな。いくらあんたでも左じゃ分が悪いぜ?」
「!」

右手で銃を構える新一に左手で掴まれているのは、フィオナの利き腕だ。
左手でも撃てるように訓練はしているが、左手で左胸のポケットあるい
は右腰のホルスターに手を伸ばすのは時間的ロスが大きすぎた。

新一が最初からすべて承知の上で腕を掴んだのだと気づいて、フィオナ
は諦めたように左手を下ろした。

「完敗ね。あなた誰?」

エレベーターの扉が閉まりかけ、新一は「開」ボタンを押した。フィオ
ナはそれを意外そうに見る。
 
「俺はただの一般人だ」
「そんな下手な嘘聞いたことないわ」
 
新一は肩を竦めた。
 
「あんたに聞きたいことがある。ベルティーニは本当にマッジョーレの
傘下に入るつもりなのか?」
「……答える義理はないと思うけど」
「どうも腑に落ちねーんだ。マッジョーレのボスの誕生パーティーだっ
てのに、ベルティーニのボスはスピーチに姿を現さない。それどころか、
ファミリーの人間がこうして従業員になりすまして潜入している。なあ、
潜入ってのは敵がするもんだぜ?」
「……………」
「答えなくてもいいぞ。推理してやる。……通信機器を持っている。小
型化するために、短距離無線だな。ホテル周囲はビアンキが監視してる
から、仲間はこのホテル内だ。マッジョーレのボスと取引するなら当然
そっちもボスが来てるんだろ?」

フィオナはじっと新一の推理を聞いている。

「だけどあんたは単独でこんなところにいる。さっきまで七階、次は八
階だ。全部の階で降りてるのか。となるとやっぱり目的は客室の中だ。
その格好なら客室の中まで入っても怪しまれないし、時間的に食事をと
りに外出している客が多いだろうしな」

新一はすっと目を細めた。

「あんた、何を探してる?」
「…………」
「……マッジョーレの客はほとんどが十階より上に泊まることになって
いる。客室名簿を手に入れられなかったわけはねーだろ? ハッキング
に特化した情報屋を雇ってるはずだからな。一般客のいる部屋まで探し
てるってことは、マッジョーレが一般客の客室と見せかけて何かを隠し
てるかもしれねーってことだ。フロントの金庫でもなく、総支配人室で
もない、わざわざ侵入されやすい客室に隠すもんなんて、一つしか思い
つかねーな」

目を逸らしたフィオナに、追い打ちをかけるように新一は断定的に言っ
た。

「マッジョーレに人質をとられたな」
「っ」

フィオナは唇を噛み締めた。

「……ボスの愛人が一人……」
「それで、代わりにボンゴレリングを持って来いと言われたわけか」
「! あなた、どこまで知って……」
「けど、なぜ取引の前に人質を探してるんだ? まるで、ボンゴレリン
グを渡しても人質が戻ってこないような……」
「……これは奴らの復讐なのよ」
「復讐?」

その物騒な言葉に新一は眉を顰め、そしてハッとした。

「まさか、四年前にマッジョーレのボスの愛人を殺害したのって……」
「……ええ、ベルティーニの人間だったのよ。ほとんど事故みたいなも
のだったけど……」
「それを知ったマッジョーレは復讐のためにベルティーニのボスの愛人
を拉致した……ついでに敵対しているボンゴレの戦力を削るために、ベ
ルティーニを脅してボンゴレリングを奪わせた……ボンゴレはついでで、
本命はベルティーニの方だったのか」

四年前の抗争のことがあるため、まったくの無関係ではないが、とばっ
ちりもいいところだ。

この会話はリボーンたちにも筒抜けだ。今頃ため息を吐いているかもし
れない。

「じゃあ、人質はもう……」

これがマッジョーレの復讐だとしたら、人質の命こそが目的だ。生かし
ておく可能性は極めて低い。

「今朝彼女の声を聞いたわ!」

フィオナは奥歯を噛み締めた。ぎりぎりという音が聞こえてくる。

「……友達なの……!」
「…………」

今にも泣き出しそうなフィオナを新一はじっと見つめた。

「……それで、これからどうするつもりだ?」
「どうするって……」
「その話じゃ、たとえ人質が生きているとしても、このホテルに連れて
きている可能性は低い」
「それでも探さなきゃ……それが私の任務でもある」
「ボンゴレリングはボスが持っているんだろ? 招待状をもらったのに
ホールには来ていないとすると、どこに隠れてんだ?」
「ボンゴレリングは持ってきていないわ。アジトの安全な場所に置いて
きた」
「それは嘘だな」

新一にあっさり否定されて、フィオナは眉を顰めた。

「何を根拠に?」
「この絶望的な状況でまだ人質を探してるってことは、人質が生きてい
てここに連れてこられているって可能性を捨てたわけじゃないからだ。
もしマッジョーレが人質を本当に返そうとした時に、ボンゴレリングが
ないんじゃ、話にならねぇ」
「……そのとおりだったとしても、ボスの居場所は教えられないわ。こ
の命に代えてもね」
「まあ、別にいい。取り返すのはどうせ取引が終わった後だし……」
「え? 今何て――」

パシュ

新一が引き金を引いて、小さな針が銃口から飛び出した。
フィオナが膝から崩れ落ちる。

『新一? 大丈夫?』
「誰に言ってんだ」

呼びかけてきた快斗に答える。

「あまり動き回られるとまずいからな」

新一はフィオナが身に着けていた通信機と発信機を外し、代わりにボン
ゴレの盗聴器と発信機を取りつけた。

「獄寺君、今何階にいる?」
『八階だ。わかってる』

言うや否や、近くの非常階段へのドアが開いた。

「引き取りにきた」
「彼女を頼むよ。たぶん数時間は起きないから、どっか目立たないと
ころに隠しといてくれ」
「ああ」

獄寺はひょいと彼女を抱え上げ、非常階段へと戻っていった。
細身ながら、かなり鍛えているのだろう。

「さて、と」

新一はエレベーターの扉を閉めた。
何事もなかったかのように、エレベーターが再び動き始める。

「計画に変更はなし」

襟元のマイクに告げると、口々に「了解」の声が返ってきた。



























2013/06/02