「新一のばかぁ〜〜〜〜!!」



ある日曜の昼下がり。
最近工藤邸に居ついた男が、ご近所に聞こえるほどの泣き声を上げて屋敷を飛び出して
いくのを、隣家の少女が呆れた様子で見ていた。

それは他愛ない会話の中で生じた意見の相違。
いくら互いのことを想っていても、いや、想っているからこその痴話喧嘩かもしれない。
他人から言わせればくだらないことでも、当の本人たちは真面目だった。


「ったく、快斗のやつ……」

家主は玄関のドアがバタンと少し乱暴に閉じられる音を聞いて、苛立たしげにソファに
身を沈めた。飲みかけのコーヒーを啜るが、すっかり冷めてしまっていて顔を顰める。
気分を鎮めるつもりが、苛立ちが増しただけだった。

読みかけの本を手に取ろうとして、その隣に置いてある自分の携帯電話に目を留める。
そもそもの喧嘩の原因は、今朝のメールだった。
そう、悪いのはメールを寄こした相手であって、自分ではないのに、どうして責められ
なければならないんだ、と思い出して余計に気が立ってきた。

気を落ち着けるように息を一つ吐いて、新一は新しくコーヒーを淹れなおすためにキッ
チンへ向かった。

すると。


ピーンポーン。


控えめなチャイムの音に、さては頭を冷やした男が帰ってきたのかと、インターホンを
確認せずに玄関へ向かった。

「もう戻ってき――」

扉を開けると、誰もいない。
あれ、と思っていると、そのもっと先、門の外から声がかかった。

「工藤君!」

そこにいたちょっと予想外の人物に、新一は目を見開いた。

「えっ? と、遠山さん?!」

そこには、何やら思いつめたような顔をした和葉が立っていた。






                    ***







「うぅ〜〜、新一のばーか、ばかばか!」

IQ400とはとても思えない語彙力で罵る青年――黒羽快斗は、考えもなく家を飛び出
した。
こういう喧嘩は今まで数えきれないほどしてきた。今回の喧嘩だって、原因は大したこ
とないのだ。ほとんど、快斗の嫉妬だ。

「服部のこと泊めるなんて言うから〜……」

今日は2人揃って予定がなかったから、久しぶりに2人でのんびり家で休日を過ごそうと
思っていたのだ。今朝になって、服部から『今日泊めてくれ』というメールがくるまで
は。

別にいいのだ、人を泊めるくらい。むしろ服部の性格を考えると、当日とは言え、押し
掛けてくる前に連絡を入れただけでもマシかもしれない。

それでも服部を当然のように受け入れる新一が、少しだけ恨めしい。
新一の気持ちを疑ったことはないし、新一が本当の意味で安心できるのは自分の隣だけ
だという自負もある。

けれど、新一が服部に対してある種の信頼を寄せているのもまた確かなのだ。
同じ探偵であるということも影響しているのだろう。そしてそれは、快斗がどうやって
も得ることのできない立場でもあった。

そんな歯がゆい思いと焦りが心のどこかで燻っていた。
それが今回のちょっとした言い合いを喧嘩にまで発展させてしまったのだ。

思い返してみれば、悪いのは自分で、これじゃあまるで新一の自分への気持ちを軽んじ
たみたいじゃないかと、自己嫌悪に陥る。そんなことで弱気になる自分が情けなくて、
涙が滲んでくる。

「うぅ〜、新一ぃ」

何だか今ものすごく、新一に会いたい。



「おわっ、と」

滲んだ涙を拭ってたら、前から歩いてきた人にぶつかってしまった。

「すみませ…………?!」

慌てて顔を上げて、快斗は固まった。

「おー、大丈夫や」

なんてタイミングだろう。そこにいたのは、まさに喧嘩の原因となった人物、服部平次
だった。

「えっ、わ、はっ、」
「? 何や?」
「はっ、服部平次!」
「何や、俺のこと知っとるん?」

驚きすぎて取り乱してしまった気持ちを落ち着けるために、快斗は深呼吸した。そんな快
斗を服部は興味深げに見ていた。

「俺、新一の……友達で、黒羽快斗っていうんだ。服部君のことは、工藤から聞いてて」

恋人、と言うのは憚られた。新一は自分のことを恋人だと知られたくないかもしれない。

「工藤の友達やったんか。知っとるみたいやけど、俺は服部平次や。呼び捨てでええで。
よろしゅうな」
「あ、うん。よろしく」
「それより黒羽、今泣いてへんかったか?」
「えっ、いや、その……」

慌てて誤魔化そうとする快斗を、服部はじっと見つめた。

「……ちょうどええわ。俺さっき幼馴染と別れて今暇なんや。ちょお付き合うてや」
「え? ちょっ、ええっ?」

服部は快斗の腕を掴むと、戸惑う快斗を問答無用で引っ張っていった。





                    ***





「どうぞ」

とりあえず和葉をリビングへと遠し、淹れなおしたコーヒーを出す。

「そんな、お構いなく」
「ちょうど淹れようと思ってたところなんだ。良かったら砂糖とミルクも使って」

同居人用に常備してあるシュガーポットとミルクピッチャーを出すと、和葉は礼を言っ
てシュガーポットに手を伸ばした。

「美味しい……」
「よかった」

一口飲んで少し気が緩んだのか、和葉は幾分小さな声で話し始めた。

「ごめんな、いきなり訪ねてきたりして。驚いたやろ?」
「正直な」

新一が苦笑する。

「うち、今日平次と一緒に東京に来たんやけど」
「ああ、服部から聞いたよ」

実はその連絡が原因で同居人と喧嘩してしまったのだが、それはさておき。

「今日は蘭たちと遊ぶって聞いたけど?」
「そうなんやけど、その前にちょっと、工藤君に会いたかってん」
「俺に?」

意外な告白に、新一は目を瞠った。

「迷惑なんはわかっとるんやけど、工藤君に相談したいことがあんねん。ここに来るこ
と、蘭ちゃんには内緒なんやけど」

蘭に内緒で、こっそり新一に相談したいこと。
とりあえず事件関係ではないだろう。それならば、もっと身近に優秀な探偵がいる。
新一が元の身体に戻ってから、蘭や服部を通じて和葉とは何度か会っているが、それほ
ど親しいわけでもない。二人きりで話すのは実は初めてだ。
そんな新一に相談と言えば、まあ、おのずと答えは決まってくるわけで。

「服部のことか?」
「えっ、あ……せやねん。やっぱり、工藤君にはお見通しなんやな」

和葉は苦笑して言った。

「工藤君は知っとると思うんやけど、あたし、平次のことが好きやねん」

少し照れたような表情とは裏腹に、その目は不安で揺れていた。

「2年生の終わりに、平次にちゃんと気持ち言うたんや。平次も頷いてくれて、あたし
は付き合ってるもんやと思うてたんやけど……」

その件はもちろん新一も知っていた。それからしばらく服部が浮かれていて鬱陶しかっ
たことも覚えている。

「あたしら、付き合うてもう何ヶ月も経つのに、何も変わってへん気がすんねん。平次
はホンマに、あたしのこと好きなんやろかって、最近思うんや……もしかしたら全部あ
たしの独りよがりで、平次にとってあたしは、ただの幼馴染のままなんやないかって」

目線を俯かせた和葉に、新一は内心深いため息を吐いた。
あの気のいい友人は恋愛に関してはかなり奥手だったが、まさかここまでとは。

「今までにも、蘭ちゃんや園子ちゃんには相談しててん。せやけど、平次の心の中まで
わかるわけやないやろ? せやから、平次と仲のええ工藤君に、聞いてみたかったんや」
「確かに俺と服部は探偵同士ってこともあって結構仲良いけど、つき合いの多い友達な
ら大阪の方がいるだろう? 俺の言葉を鵜呑みにしてしまっていいのかな」

すると、和葉は思いのほか強い眼差しで言った。

「あたしは正直まだ工藤君のことそない知らんけど、平次との間には、何やただの友達
以上のもんがある気がするんや。信頼、というか……工藤君はわからんけど、平次は絶
対、工藤君を大事に思とるし、信頼しとるってわかるんや」

鋭い子だな、と新一は内心苦笑した。
伊達に探偵の幼馴染というわけでもないらしい。いや、それか女の勘という奴なのか。

「高2の時――あたしが蘭ちゃんと知り合うた時らへんから、平次がいきなり『工藤工
藤』言い始めたんや。あたしの知らん工藤っていう人のことをおもろそうに話すんが、
その……ちょっと複雑で、あたし、工藤君に嫉妬してたんかもしれんわ」

和葉自身、戸惑っているのだろう。複雑な表情で窺うように新一を見る。

確かにあの頃、服部は暇を見つけては東京に来ていた。そのくせ話に頻繁に出てくる
「工藤」はほとんど姿を現さないのだから、自分の知らないところで交流のある存在に
嫉妬をするのは自然かもしれない。
その上、工藤新一は、女性だけでなく男性からも見惚れられるほどの美人なのだから。


「去年……俺はある大きな事件に関わっていた」

話が少し長くなりそうだからと、新一はコーヒーのお代わりを出しながら切り出した。






                    ***





「あ、あの、服部クン……」
「せやから服部でええって」

服部が強引に快斗を引っ張っていったくせに、「俺東京は詳しくないねん。お前の知っ
てる店連れてけや」と言われて、二人は今、快斗がよく行くパフェの美味しいカフェに
来ていた。周りは女の子ばかりで、男二人という組み合わせは少し浮いていた。

「しっかしお前甘いの好きなんやな」

習性というか、戸惑いながらもちゃっかりチョコレートパフェをつつく快斗に、服部が
何やら感心したように言った。

「……どうして俺とお茶なんかしてるわけ」
「せやから言うたやん。今暇なんや」

服部はコーヒーを啜りながら言った。

「まあホンマは、今日は工藤にちょっと相談があったんやけど……お前でもええわ」
「は?」
「お前も工藤によう似てモテそうな顔しとるし、女子の扱い上手そうやからな」
「女子の扱い?」
「せや」

服部は神妙に頷いた。

「実はな、今付き合うとる女がおんねん」
「もしかして、さっき言ってた幼馴染?」
「そうや」

遠山和葉のことは情報として知っていた快斗だったが、付き合っているのは知らなかっ
た。
そういえば新一が前に何か言っていたような気がするが、服部のことについてはできる
だけ耳を塞いでしまっていた。

「今年の春休み入る前に向こうから言われたんやけどな」
「何だ、じゃあラブラブ?」
「それが、そうでもないねん」

二人がつき合ってると知って少し気分が浮上した快斗だったが、服部の方は逆にため息
を吐いた。

「今まで幼馴染やったから、その、こ、恋人になった言うても何も変えられへんやん。
俺は無理に変える必要はないと思てんねんけど、和葉はそれが不満なんやないかって。
最近二人で出掛けても浮かない顔してんねん」
「ふぅん。和葉ちゃんはもっと恋人同士みたいなことがしたいってことだよな」
「たぶんな」
「服部は今のままがいい、と?」
「それがようわからんのや。俺はずっと前から和葉のこと、絶対死なせたらあかん女や
と思っとる。けど、それじゃ足りひんのか」
「足りないとかじゃなくて……そうだな、服部は和葉ちゃんとキスしたいと思わないの?」
「キ、キスて……」
「あるいはそれ以上とか」
「そ、それ以上て……」
「セックス」
「セッ……?!」

赤面する服部に、快斗は服部の認識を少し改めた。この男、普段堂々としている割に、
恋愛に関しては新一以上に奥手だ。

「俺はしたいと思うよ」

新一のことを思い浮かべると、自然と言葉が出てきた。

「俺にも、絶対に死なせられない女の子がいる。そいつも俺の幼馴染なんだ。でも、そ
いつ以上に、絶対に離れたくない人がいる。俺はその人と何でも分かち合いたいから、
キスもしたいし、セックスもしたい。それって、自然な欲求じゃないかな」

一緒に気持ち良くなりたいけど、何より繋がって一つになりたい。

「黒羽、お前って……」

晴れやかな笑顔で言う快斗に、服部は呆けたように言った。

「結構恥ずかしい奴やな」
「えっ、ちょ、ひどくない?」

俺今いいこと言ったじゃん! と喚く快斗に、服部は「すまんすまん」と笑いながら謝っ
た。

「正直、俺はそういう欲求が薄い方みたいやから、その、セ、セックスしたいかどうかっ
ちゅうんはまだようわからん。けど、キ、キスくらいやったら、俺もし、したい思うで」
「ほほー」
「せやけどその、どうやったらええんか、シチュエーションっちゅうか、ムードっちゅう
か……」
「なるほど」

初心な反応を見せる服部に、快斗は俄然やる気を刺激された。

「よし、それならこの黒羽快斗様が教えてやろう」
「なんや、むかつくな」
「まずはデートだな。今までにはどういうとこに遊びに行ったんだ?」
「どこって……お好み焼き屋?」
「服部……」
「あ、この間映画も観に行ったでっ」
「……ちなみに何の?」
「す、推理サスペンスもの……」
「………服部」
「すまん……」

これだから探偵は……と快斗は遠い目をした。












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