アメリカ編@















観光地、ビジネス街、住宅地。そのすべてを押し込んだ島、マンハッタン島。
そして住民たちの憩いの場となっているセントラル・パークの北に位置する、
多くの知識の集うところ、コロンビア大学。

そこに、彼はいた。


「おーい、シンイチ!」

呼ばれた気がして振り返ると、遠くから見知った姿が広い芝生を横切って駆
けてくる。

「よう、スコット」

追いつくのを待って、目の前で息を整えている男、スコットに声をかける。

「どうしたんだ、そんなに急いで」
「いや、用があるのは俺じゃなくて……ジェフリーが探してたぜ。図像学研
究の授業のノート見せてくれって」
「ああ、別にいいけど、それならメールしてくれれば……」

すると、スコットが呆れたように言う。

「昨日メールしたけど返信がないって嘆いてたぞ?」
「あー……」

そういえば、メールを開いたところでタイミング悪く警察から電話があって、
結局メールは読まずじまいだったのを思い出した。

「ノートなら今持ってっけど、オメーこの後ジェフに会う?」
「おう。次のコマ一緒だから」

ちょうど持っていたノートをスコットに預ける。他の授業ならノートはパソ
コンで取ることが多いが、図像学は図を手書きすることもあるため紙に書き
取っている。

「でも図像学ならソフィーにノート見せてもらえばいいのにな。彼女も取っ
てるだろ?」
「そりゃまあそうだけど、専門でもないのに専門家なみに詳しい奴がいたら
なあ……」

スコットが少し遠い目をする。

「大体、シンイチは無宗教なのに何でそんなに図像に詳しいんだよ」
「確かに図像は宗教的な意味合いが強いから、信者の方が馴染みはあるだろ
うけど、俺は必要になるかと思ったからちょっと齧っただけだぜ?」
「あれがちょっとってレベルかよ……」

仮にもアイビー・リーグと呼ばれるアメリカ有数の名門大学の一つだ。元よ
り優秀な者ばかりが集うエリート校だが、その中でも、最近留学という名目
で編入してきたシンイチ・クドウは一目置かれる存在だった。
FBIからも頼りにされる探偵であることは瞬く間に噂になり、最近ではN
Y市警からも捜査の協力要請が入ることがあるようだ。

大学での専門は犯罪心理学だが、探偵という職業ゆえの好奇心からか、専門
外の授業にも多く顔を出していることも有名だ。


溜息を吐くスコットに新一が首を傾げていると、図書館からソフィーが出て
くるのが遠目に見えて新一は軽く手を振った。
ソフィーはすぐに気づいて近寄ってくる。

「シンイチ! と、スコット」
「何で俺をおまけみたいに言うんだよ」
「実際そんなもんでしょ」

軽い冗談の応酬をする二人に新一は苦笑を洩らす。すっかり見慣れたいつも
の光景だ。

「……ソフィー」

ふと、ソフィーの唇の端に何かがついているのに気づいて、新一は小声で話
しかけた。小声と言っても、すぐ近くにいるスコットにはバレバレだが。

すっとティッシュを差し出して、自分の唇の端をちょんちょんと指し示す。
ソフィーは訝しげに首を傾げた直後、あっと気づいてティッシュで唇を拭っ
た。

「え? 何なに? 何かついてた?」

一連のやりとりを見ていたスコットだが、状況を理解できずに二人を見比べ
る。そんなスコットに、ソフィーが肩を竦めた。

「だからあんたは彼女ができないのよ、鈍ちん」
「ええ? シンイチ、何だったんだよ」
「さあな」

ますます困惑している様子のスコットに、新一はわざとらしく腕時計を見や
った。

「オメー、次の講義、感性学概論じゃなかったか? 時間平気なのかよ?」
「えっ? あっ、そうだった! じゃ、俺行くな!」
「あ、スコット。ジェフに『トッポスのチョコレートケーキ』って伝えとい
てくれ」
「え?」
「ノートのレンタル料。2ピースな」
「うわー……わかった、伝えとく。……あ、そうだ、」

一度背を向けたスコットだが、もう一度新一を振り返る。

「今夜エドウィンたちと飲むんだけど、シンイチも来ないか? たぶんイー
スト寮のラウンジを貸し切るんだろう。女の子たちもいっぱいくるって」
「あ、いや、俺は……」

だが新一の言葉を遮るように、ソフィーが言い返した。

「シンイチは今夜は恋人とデートなの! あんたたちの下品なパーティーで
邪魔しないでちょうだい!」
「下品って何だよ!」

反論しながらも本当に時間がないのか、走り去っていくスコットを新一とソ
フィーは無言で見送った。
やがてスコットの姿が完全に見えなくなると、ソフィーがぽつりと言う。

「シンイチ、さっきはありがとう。気づかなかったわ」
「余計なお世話かとも思ったんだけど」
「そんなことないわ」

ソフィーが口元に手をやり、さっき拭ったところを指先でなぞる。
今は綺麗に取れてどこにもその痕跡は見当たらないが、ついさっきまでそこ
についていたのは、新一の思い違いでなければ、リップグロスだ。それも自
分でつけたのがはみ出たような感じではなかった。むしろ、グロスのついた
唇を擦りつけるように押しつけられたような――。

「……私がレズだってこと、知ってたの?」
「まあな」

日本に比べればはるかに同性愛が認められ受け入れられている国ではあるが、
それでも差別意識が根強く残っているのもまた事実だ。
ソフィーも躍起になって隠すつもりはなかったが、聞かれなければ言わない、
そんなスタンスを取っていた。

手の中の丸めたティッシュに目を落として、ソフィーが言う。

「ホント、シンイチは優しいわよね……私、男は駄目だけどシンイチならい
けるかも。なんか男っぽくないし」
「それ、絶対褒めてねぇよな……」

新一が顔を顰めると、ソフィーはクスクス笑った。

「そうだ、さっきはスコットを追い払うためにああ言ったけど、シンイチは
誰かとつき合ってるの?」
「えーっと……」
「誤魔化してもダメよ。あなたが甘いものそんなに好きじゃないことくらい
知ってるもの。チョコレートケーキって、恋人のためなんでしょ?」
「あー……」

口ごもるものの否定しない新一に、ソフィーがにやにやしながら畳みかける。

「誰だれ? この大学の人?」
「いや……学生じゃないんだ」
「ふぅん? あなたって謎が多いから、色んな噂があるのよ。FBIに捜査
協力するために渡米してこの大学で潜入捜査してるとか、しつこいストーカ
ーから逃げてきたとか、婚約者を追ってきたとか」
「ははは……」

その根も葉もない噂の中に真実があるものだから、乾いた笑いしか出ない。

「あ、でも、私一つ知ってるわよ。マジック好きでしょう、あなたの恋人」
「えっ、どうしてそれを……?」
「前にあなたがマジックショーのチケットを真剣に眺めているのを見たのよ。
恋人と行ったんでしょ?」
「あー……」
「最近ニューヨークで話題のカイト・クロバのマジック! ポスター見たけ
ど、彼イケメンよねぇ。ちょっとあなたに似てるかも。恋人が彼のファンな
ら、寝とられないように気をつけなさいよ」
「はは……」

まさかそのマジシャンが恋人ですとは言えない。

その時、大学の巨大な正門からシルバーのスポーツカーが颯爽と入ってきて、
滑り込むように二人の前に停まった。同時に、助手席側の窓が開く。

「新一、お待たせ」
「いや。ありがとな」
「え……」

突然のことに驚くソフィーをよそに、新一は慣れたように助手席のドアを開
けて乗りこんだ。

「じゃ、ソフィー。またな」
「え、ええ……」

そしてあっという間に走り去ったスポーツカーを、ソフィーは呆然と見送っ
た。ちらりと見えた運転席に座っていた男はサングラスをかけていて顔はよ
くわからなかったが、空気からしてイケメンだった、気がする。
そして、何となくどこかで見たことがあるような……。

「え、もしかしてあれがシンイチの恋人……?」

もしかしてすごいものを見てしまったんじゃないだろうか、とソフィーは思
った。







「今の、友達?」
「そう。ソフィーっていって、法学部の子」
「ふぅん」
「……心配しなくても、彼女、ガールフレンドいるから」
「ほぉ」

快斗の嫉妬心を察して付け加えると、快斗はあっさり納得したようだった。

「ごめん、新一の交友関係は知っておきたくて」
「……おう」

こうやって嫉妬してくれるのが、実は舞い上がってしまうほど嬉しいなんて
ことは、快斗には秘密だ。
これまでずっと遠くから見ているだけだった存在が、今はこんなに近い。
それが新一にとってどれほど奇跡的なことか。

快斗になら、束縛されて嫌だとは思わない。むしろ、その束縛が心地良い。

「そういや、彼女、オメーのこと知ってたぞ」
「へぇ?」
「イケメンだから、マジック好きの恋人を寝とられないように気をつけろっ
て言われた」
「ははっ、何それ」

快斗が笑う。
そして唇は笑みをかたどったまま、隣の新一を流し見た。

「そのイケメンはとっくに新一のものなのにな」
「言ってろバカ」

快斗の視線から逃れるように顔を背けるが、照れているのはバレてしまって
いるだろう。横からくすくすと笑い声が聞こえてくる。

「今度、キャンパスに遊びに行くからさ。新一の友達紹介してよ」
「ああ、いいぜ」

新一の恋人の正体を知ったら、ソフィーは驚くだろうなぁと新一は想像して
くすりと笑った。


ニューヨークに来て半年。
このエンターテイメント溢れる街で、快斗は早くも、小さいながらステージ
を勝ち取れるまでになっていた。

そしてFBIのみならずNY市警とも信頼関係を築きつつある新一。
快斗についてニューヨークに行くと決めた時、急いで近場の大学に留学の手
続きを取ったのだ。

二人は今、市内にアパートメントの部屋を借り、同棲している。
仕事と大学とですれ違いもあるが、少なくとも、同じ部屋に帰ってくる。
同じ大学に通いながらも会話することすらなかった日本での生活とは、大違
いだ。

同じ空間で目を覚まし、同じ空間で眠る。
それだけのことが、二人の心を満たしていく。

流れるニューヨークの風景をぼんやりと眺めながら、新一は幸福感を噛み締
めるように微笑んだ。





















再掲:2013/05/12