※clap sss 04の続きです。(単体でも読めます)
視線を感じたなんて、自惚れだろうか。
何もないところから白ワインのボトルとグラスを取り出し、栓を開けて優雅な
仕種で注ぐ。一口飲んでグラスの上にスカーフをサッと閃かせると、次の瞬間
には透明な液体が濃い赤ワインに変わっていた。
観衆のどよめきを受け流しながら、ふと、視線を感じた気がした。
自分を取り囲む何十人もの観客の視線を一身に受けつつも、そのたった一つの
視線は、何かが違う気がした。
これまでに多くの視線を受けてきた。
夜を翔けていた高校時代は、殺気や疑惑に満ちた視線。
大学に入ってからは、羨望や嫉妬、憧憬や思慕、感嘆の眼差し。
そのどれとも違う、首がちりちりするほどに熱く、切ないほどに真摯な視線。
もしかして彼じゃないかと、期待してしまう自分に、ポーカーフェイスの裏で
自嘲する。
彼がそんな目で自分を見てくれるわけはないのに。
そもそも、彼が素顔の自分を見つけてくれているなんて、ひどい自惚れだ。
視線の主を見たくて、けれどショーの最中に観客から顔を逸らすわけにもいか
ず、衝動をぐっと堪えた。
「黒羽く〜ん!」
「黒羽君、今日のもすごかったよー!」
「やっぱ最高だぜお前!!」
「また見せてくれよな!」
「おう、見てくれてサンキュな」
拍手喝采の中声をかけてくれる友人たちや顔見知りに笑顔を振りまく。たとえ
あの視線の主が気になっていても、彼らは皆大事な観客だ。蔑ろにするわけに
はいかない。
だが、やっと人だかりが消えた時、あの視線の気配はもうどこにも感じられな
かった。
「くそ………」
悪態は自分自身に対してだ。
あの視線が、彼のものだなんて、そんなわけはないのに。
勝手に期待して勝手に落ち込んで、本当に愚かだと自己嫌悪する。もう何度も
繰り返した感情のサイクルだ。
彼がいつも図書館の自習コーナーにいることは知っていたから、そこから見え
るだろうこの広場でいつもゲリラショーをする。
たとえ彼が見てくれていなくとも、近くにいるという思い、それだけで気合い
が入って、緊張もした。
かつて怪盗に全神経を向けて細められた双眸を思い浮かべて、目を瞑った。
生半可なトリックじゃ彼の目は騙せない。
遠慮なしに射抜いてくる、宝石よりも眩しく輝くあの蒼い目は――
「黒羽君」
かけられた声に、回顧を中断させられた。
内心舌うちしながらも、もちろん顔には出さない。いつもの笑顔で振り返った。
「……一色さん。どうしたの?」
「もう、姫奈って呼んでって言ってるじゃない」
「ああ、うん。ごめん、慣れなくて。それで、どうかした?」
「さっきのショー、相変わらずすごかったわ。さすが黒羽君ね」
「どうもありがとう。いつも見てくれて嬉しいよ」
「でも最初の方見逃しちゃったわ。今日やるって、どうして教えてくれなかっ
たの?」
「まあ、ゲリラショーだったから……」
頬を膨らませた姫奈は、普通の男からしたら大変可愛らしく見えるのだろう。
去年の学祭のミス東都大に選ばれるだけの容姿と、財閥のお嬢様ならではの気
品が滲み出る仕種。
時々出る我がままも、可愛いおねだりに見えるのだろう。普通の男には。
快斗は正直こういうタイプは苦手で、できるだけ2人きりになるのは避けてい
た。彼女と噂になって、それが万一彼の耳に入ったりしたらと思うと、気が気
じゃなかった。
それでなくとも、最近増えてきた彼女の、自分は快斗の特別、というようなこ
とを匂わす発言には辟易している。
「じゃあ、俺こっちだから……」
「黒羽君、どこ行くの?」
さりげなく距離を取ろうとすると、すかさず姫奈が間を詰めてくる。
「そろそろ3限始まるわよ?」
「ちょっと野暮用」
「……そっちって図書館? 私も一緒に行くわ」
行き先は本当に図書館だったので、快斗はしかたなく頷いた。
情けなくて心の中で溜息を吐く。元とは言え怪盗として警察を撒いてきた自分
が、女の子一人追い払えないとは。
「何か借りるの?」
「ちょっと忘れ物。すぐ終わるから、ここで待っててくれない?」
「私も一緒に探すわよ」
「いや、本当にすぐだから……」
押し問答しながら螺旋階段を上る。
2階の半分のスペースを取っている自習コーナーをさっと見渡すが、期待して
いた姿は見えなかった。
(いない、か……)
期待しないようにと言い聞かせていたのに、やはり落胆が大きい。
思わず小さく溜息をもらすと、姫奈が訝しげに覗きこんできた。
「どうかしたの、黒羽君?」
「いや、何でも――」
その時、検索用パソコンの前にいた数人がひそひそと話しているのが聞こえた。
「ねぇねぇ、私さっき工藤新一見かけちゃった〜」
「へぇ! そういえば図書館によくいるって噂だもんねー」
「ここには午前中からいたみたいだけど、昼休み始まってすぐに、慌ててどっ
かいっちゃった」
「ああ、もしかして警察からの協力要請ってやつ? 私の友達が工藤君と同じ
授業取ってるんだけど、授業中でも連絡あると飛び出して行っちゃうんだって」
「へぇ、何て言うか、すごいよねぇ」
「でもデートの途中で事件優先されたら悲しいよね。彼女いるのかな」
「いやあ、案外年上の彼女とかいそうじゃない? 大人の余裕的な」
「あー、なるほど」
「実は、前に綺麗な人が大学にスポーツカーで乗り付けて、工藤君を迎えにき
てるの見たことある」
「ええっ。マジで?」
「マジ」
「はわ〜……でも実際どうなんだろねー?」
「ねー」
一連の会話を盗み聞きしながら、快斗は拳を握りしめた。
彼についての噂はそこらじゅうに転がっている。それらにいちいち翻弄される
気はないが、彼に恋人がいるかもしれないなんて、想像するだけで胸のあたり
に黒い炎が渦巻き、凶暴に燃え上がる。
「もういい……」
「え? 忘れ物は?」
姫奈の声を無視して、快斗は上がってきたばかりの螺旋階段を足早に下りてい
った。
「ちょっと、黒羽君!」
図書館を出たところで、追いついてきた姫奈が快斗の肩を掴まえる。
学食に隣接したその場所は、昼休みが終わる頃になっても多くの学生で賑わっ
ていて、今の2人の様子はテラス席から丸見えだ。
大学の有名人2人が連れ立っているだけでも注目を浴びるのに、姫奈が上げた
声で、さらに多くの目が集まった。
「何?」
「何って……さっきからどうしたの? 今日の黒羽君、ちょっと変だよ」
「別に、俺は何ともないよ。それより一色さん、もうすぐ3限始まるから、早
く行った方がいいんじゃない?」
「それは黒羽君だって一緒でしょう? それに、姫奈って呼んでって――」
「一色さん」
快斗は遮るように彼女の名を呼んだ。
さすがに何か感じたのか、姫奈は黙った。
「俺、今は一色さんの相手をしている余裕がないみたいなんだ。悪いんだけど、
教授には体調不良で早退したって、伝えてもらえるかな」
それはいつもの快斗と変わらない、穏やかな声だった。だが、そのどこか冷た
い微笑に、姫奈は本能的に身体が強張った。
「あ……うん。わかったわ……」
ぎこちなく頷いて、逃げるように踵を返して去っていった姫奈を見送って、快
斗は浮かべていた微笑を消した。
一人になると抑え込んでいた感情があふれだしそうで、気を落ち着けるために
何度か深呼吸をする。
今日も、出会えなかった。
そう思って嘆息するのに、そこには少しの安堵が混ざっている。
彼に素顔で会いたい。
けれど、彼に話しかけて軽蔑の眼差しで見られる日を、少しでも先送りにした
い。
相反する二つの気持ちが鬩ぎ合う。
恨めしいくらいに晴れ渡った空を見上げて、快斗はその色を瞳に宿す人に思い
を馳せた。
一色さんは別に悪い子じゃないと思うんですけどね……
再掲:2013/02/19
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