いくつかの書棚を整理し終えたところで、新一はキャスター付きの階段の
段差に腰掛けて肩を回した。
「ふぅ……」
天窓から見える空は薄暗い。時計を見ると、五時半過ぎだった。
今日一日新一が独りだと知った隣家が夕飯に誘ってくれたので、六時半に
は隣に赴くことになっている。蘭と園子、それから少年探偵団も一緒だ。
その前にコーヒーでも飲んで一息つくか、と思い立ったところで、そうい
えばコーヒー豆が少なくなっていたことを思い出した。朝気がついて、今
日のうちに買いにいこうと思っていたのだが、本の整理に没頭していてす
っかり忘れていた。
今日の分くらいはあるが、明日の朝も飲みたい。
新一はもう一度時計を見て、まだ夕飯まで時間があることを確認した。
「よし、買いに行くか」
服の埃を軽く払うと、携帯と財布だけ持って新一は家を出た。
新一のお気に入りのコーヒー豆専門店は、杯戸町にある。
元の身体に戻ってから全快するまで休学していた間に、体力回復のための
運動も兼ねて付近の町を歩いてみた。その時に偶然に見つけた店だ。
バスに乗って杯戸町まで行く。
バス停から少し歩いた、大通りから一本入ったところにその店はある。
ガラス扉を開けた途端、コーヒーの深い香りが鼻腔に広がった。思わず深
呼吸したくなる。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
灰色の髪の毛をきちんと整えた丸眼鏡の男性が、新一を迎え入れた。ここ
の店主だ。
「いつもと同じでよろしいですか?」
「はい、お願いします」
頻繁に来ているためお気に入りの豆を覚えられている。
その場で袋詰めにされた豆を受け取り、店を出た。
バス停でバスを待っていた時だった。
向かいの歩道を歩いてくる二人組に気がついて、新一は何となく目を向け
た。
「……快斗?」
キャップを深く被り顔を隠してはいるが、間違いなく自分の恋人だった。
その隣にいるのは、知らない美少女だ。
二人は何やら口論をしているようだった。速足で歩く快斗を、美少女が追
いかける。不穏な雰囲気を感じとって、新一は思わず時刻表の影に隠れて
様子を窺った。
あまり大きな通りではないが、二車線分の距離はある。その距離を飛び越
えて聞こえてくるほどの声で、美少女が快斗に詰まった。
「待ちなさい! あなたは今日ここにいるべきじゃないのよっ」
「うっせーな、いい加減にしろよ。ったく、毎度仕事のたびにつき纏いや
がって」
「いいから聞きなさい! あなたが後悔するってルシファーが……」
「はいはい。お告げか何だか知らねぇけど、信じる信じないは俺の自由だ
よな?」
「黒羽君……!」
快斗は新一に気づくことなく去っていき、美少女もそれを追っていった。
それからすぐにバスがやってきて、新一はそれに乗り込んだ。
バスが発車して、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。
明日のキッドの犯行現場は杯戸町だったはずだ。それもここからそう遠く
ない。きっと快斗は今日、最終確認をしに来たのだろう。
あの高校生に見える美少女は一体誰なのだろう、と新一は考えた。
快斗がキッドに関係する仕事中に誰かと接触するのは珍しい。それも、徹
底してフェミニストな彼が幼馴染の少女以外にああいうぞんざいな態度を
とるのを初めて見た。気を許している証拠だ。
しかも、あの二人の会話。
何も知らぬ者が聞けば、ただの喧嘩だろう。だが、快斗はキッドの仕事を
仄めかしていた。
あの少女は知っているのだろうか、快斗のもう一つの顔を。
胸の痛みに気づかないふりをして、目を瞑る。すると、今度は胃のあたり
に不快感がたまり始めた。気持ち悪い。
最寄りのバス停に辿りつく頃には、すっかり体温が下がって血の気が引い
ていた。降り立ったアスファルトがやわらかく感じて、少し足下がふらつ
く。
貧血を起こしかけていることを自覚して、行きよりもゆっくりのペースで
歩いた。そうして心地良い風にあたっているうちに、少しは気分がましに
なってくる。
帰宅すると、ちょうどいい時間だった。コーヒー豆だけ置いて、再び家を
出る。
ドアを開けて出迎えてくれた小さな少女は、新一の顔を見るなり顔を顰め
た。
「工藤君、顔色悪いわよ。大丈夫?」
「ああ……ちょっと乗り物酔いしただけだ」
「……………」
哀の眉間の皺が一層深くなる。信じてはくれないだろう。何せ、小五郎や
有希子の荒い運転の中で平然と本を読んでいたのを知っているのだ。
「哀くん、どうしたんじゃ?」
戻ってこない哀にキッチンから博士が呼びかけてくる。
哀はしかたなさそうに溜息をついて、新一を招き入れた。
「気分が悪くなったら、無理せずに言うのよ」
「ああ、サンキュ」
キッチンには蘭もいて、園子はテーブルに皿を並べていた。
「新一! いらっしゃい」
「突然じゃったからご馳走は用意できなくてすまんの」
「いや、元々一人で簡単に済まそうと思ってたし。悪いな」
「新一君、こういう時は謝るんじゃなくて、素直にありがとうって言うの
よ」
「ああ。ありがとう」
その時、阿笠邸のチャイムが鳴って、少年探偵団がやってきた。
それから家の中は一気に賑やかになり、口ぐちに祝いの言葉をくれる子供
たちに新一は少し気分が晴れるのを感じた。
博士たちが拵えてくれた夕飯をみんなで食べ、その後には蘭が駅前で調達
してきてくれたフルーツタルトを食べた。
あまり遅くなると親たちが心配するからと、博士が早めに子供たちを車で
送りに出る。粗方片付けも終わったところで、蘭と園子が鞄を手にした。
「それじゃあ、私たちもそろそろ帰るね」
「送ってくか?」
「ううん、いいよ。私のが強いし」
「ははっ、だな。……今日は本当にありがとな。おかげで楽しい誕生日に
なった」
「ホント、感謝しなさいよー」
「明後日、学校でね」
「おう。おやすみ」
そうして、家の中には新一と哀だけになった。
「……結局、彼からは連絡ないのね」
「……明日、予告日だから。忙しいんだよ」
「メール一通送れないほど?」
非難するように言った哀に、新一は苦笑した。
「いいんだよ、別に誕生日くらい。それに、仕事前に余計なことで煩わせ
たくないんだ。オメーもあいつに余計なこと言うんじゃねーぞ」
「あなたがいいなら、私が口出すことじゃないわ」
でも、と哀が続ける。
「あなたの体調不良の原因になることは、排除させてもらうわよ」
そう言うと、哀はさっさと地下の自室へと下りていってしまった。
態度は冷たいが、そこに彼女の優しさが隠れていることは承知している。
「心配させてごめんな」
新一はそっと呟くと、阿笠邸をあとにした。
ポケットに入れっぱなしの携帯は沈黙を守っている。
着信は、まだない。
***
六日の朝。
たった数日の休みだったが、朝の学校の賑やかな雰囲気が何だか久しぶり
な感じがした。連休中に楽しいことでもあったのか晴れやかな顔の者もい
れば、疲れた顔の者もいる。快斗はどちらかというと後者だ。
昨晩のキッドのショーの疲れが少し残っている。
宝石の確認も昨夜のうちにして中森警部のデスクに返却したから、結局帰
宅できたのは真夜中近かった。
思い出した途端あくびが出る。
それでも、今回は新一が警備に参加していなかった分、楽勝だった。
「おっはよー、快斗!」
昇降口のところで後ろからバシン!と強い力で背中を叩かれる。
「いってーなアホ子!」
「バ快斗がぼうっとしてるからでしょー」
似たり寄ったりのやり取りをほぼ毎朝繰り返しているものだから、周りも
また始まった、くらいにしか思わない。
「あ、紅子ちゃん。おはよう!」
「おはよう、中森さん」
廊下のロッカーの前で、紅子に遭遇する。妖艶な微笑を浮かべて青子に挨
拶を返した後、紅子はちらっと快斗に一瞥をくれただけで、すぐに顔を逸
らしてしまった。
高飛車なのはいつものことだが、ここまで冷たい表情なのは珍しい。大方、
一昨日邪険にしたのが気に入らないのだろうと、快斗は深く考えなかった。
「そういえば〜」
席について机に突っ伏していると、青子がにまにま気持ち悪い笑みを浮か
べながら近寄ってきた。まだ予鈴が鳴るまで時間がある。
「一昨日はどうだったのぉ?」
「一昨日?」
一昨日と言えば、一日中、次の日の犯行の下準備に追われていた。もちろ
ん、青子がそんなことを知るはずもない。
だが、この興味深々な態度はさながらあれだ、友人とその恋人との初デー
トの様子を聞き出そうとするかのような、野次馬根性が滲み出ている。
「んもうっ、隠したって無駄よ〜。快斗のことだから、工藤君と一日中イ
チャイチャしてたんでしょ〜」
「……はぁ?」
新一とつき合っていることは告げていたが、その新一がなぜこのタイミン
グで出てくるのか理解できない。
怪訝な顔をすると、青子はきょとんとした。そして大きな目をさらに見開
く。
「え、嘘。本当に何もしてないの?」
「だから、何の話だよ」
その瞬間、教室の反対側から、冷たい目でこっちを見ている紅子の姿が視
界に入った。
青子が困惑しながら、躊躇いがちに口を開く。
「一昨日、工藤君の誕生日だったんだよ」
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