「工藤君、こっちだよ」
控えめに手を振る白馬の姿を見つけて、新一は餡掛けチャーハンのの
った薄緑色のトレイを持って近づいた。
食堂はちょうど昼時で混み合っている。
この広い食堂で、よくもまあ相手を見つけられたものだと正直思う。
大きなテーブルの端に、向かい合って腰掛ける。
サンキュ、と礼を言うと、白馬は気にするなというように上品な微笑
みを浮かべる。
席を取っておいてもらって何だが、つくづく学生食堂に似合わない男
だ。
その白馬の前には、味噌ラーメンが置いてある。意外すぎるチョイス
だ。
新一の微妙な顔に気づいて、「僕だってラーメンくらい食べるさ」と
白馬は苦笑した。
「頼まれていたものだけど」
白馬は唐突に本題に入った。
そもそも今日わざわざ待ち合わせをして二人で昼食をとっているのは、
他の誰にも聞かれたくない用事があったからだ。
だからこそ、人の多さが逆に目くらましになる、昼時の学生食堂を場
所に選んだのだ。
次の言葉が出てくるのを待って焦れる新一に、白馬は殊更ゆっくりと
した口調で告げた。
「手に入ったよ」
「! 本当か?!」
「ああ」
白馬が、ごく少量の白い粉の入った半透明の包み紙を、テーブルの上
を滑らせてすっと差し出した。
「まさか君がこんなものに興味を示すとはね」
手に入れるのは大変だったよ、と言った白馬に呆れられているような
気がして、新一は弁解するように言った。
「い、いや……だって、しかたねぇだろ?」
「……君なら他にいくらでもやりようはある気がするけどね」
白馬の呟きにぶんぶんと首を振る。
これだって十分、苦肉の策なのだ。
「ところで、肝心の当日の予定はどうなったんだい?」
白馬の問いかけに、新一はぱあっと顔を輝かせた。その顔を見れば答
えはわかったも同然だ。
「約束取り付けた! しかも夜!」
「二人きりで?」
「おう!」
嬉しさを抑えきれない新一とは反対に、白馬は懐疑的な表情を浮かべ
た。
「てっきり当日の夜はパーティーでも開くのかと思っていたよ」
「パーティーは翌日の土曜日にやるんだってさ」
「……じゃあ、本当にやる気なんだね?」
「ああ。もうこれ以上我慢できないんだ」
「君に言うのはお門違いだけど……ヘタしたら法に触れる行為だ」
「わかってる」
新一は真剣な顔で頷いた。
二人は無言で見つめ合い、それから数秒後に白馬が根負けしたように
ため息を吐いて目を逸らした。
「悪い……。これ以上、お前には迷惑かけねぇから」
「……いいや。それを君に渡した時点で僕も同罪だ」
苦笑した白馬が、諌めつつも新一を応援してくれているのを知ってい
る。
情けない顔でふにゃりと笑みを浮かべて、新一は小さく「ありがとう」
と言った。
***
「よう。いらっしゃい」
21日の夕方、快斗が工藤邸を訪ねてきた。
大学から直接来たようで、斜め掛けのポストマンバッグを肩から提げ
ている。
講義を休んで昼間から支度をしていた新一は、快斗の来訪を楽しみに
していたのを悟られないよう気だるげなポーカーフェイスを貼りつけ
て快斗を出迎えた。
「本当に俺の手料理なんかでよかったのか?」
せっかく祝うのだから、ちゃんとしたレストランで食事でもと思って
いたのだが、祝われる当人の強い希望によって、工藤邸でささやかに
祝うことになったのだ。
「もちろん! 工藤って見かけによらず料理超うまいって服部から聞
いたからさー。これは食べてみなきゃと」
「おい、見かけによらずって何だ……っていうかそんなん、言ってく
れればいつでも作るのに」
快斗のためなら、手料理を振舞うなんていくらでもする。
ぽろっと溢れた本音を誤魔化すように、新一は快斗をリビングに放っ
てキッチンに逃げた。
「とりあえずこれでも飲んで待ってろよ」
気を落ち着かせてリビングに戻ってきた新一が差し出したのは、甘い
香りの湧きたつカフェオレ。
一口飲んで、幸せそうに顔を綻ばせた快斗に、新一は思わず見惚れた。
世間を沸かせた怪盗キッドが姿を消して二年余り。
その怪盗と大学で再会して一年。
互いの仮の姿については一切触れないまま、それでも学内で一番長く
共にすごす仲になるまで、時間はかからなかった。
周りからはセットで扱われることが多く、親友という認識は間違って
いないだろう。
間違っているのは、新一が、親友以上の感情を抱いてしまっているこ
とだ。
「うおーっ、すげぇ!!」
新一がダイニングテーブルに並べた数々の料理に、快斗が歓声を上げ
た。
ガスパチョ、生ハムとクレソンとひよこ豆のサラダ、ローストビーフ、
ポルチーニのチーズリゾット、ラグ―ソースのフェトチーネ、タコの
マリネ、チキンのハーブ焼き。
二人では食べきれないほどのご馳走がテーブルを埋めた。
この日のために買っておいたトスカーナのワインを空けて乾杯する。
「誕生日おめでとう」
「ありがとな!」
散々目移りした挙句ガスパチョを一口飲んで、頬を紅潮させる。
「何これ美味しい!!」
「そうか? よかった」
それからしばらくは快斗の感激のリアクションがいくつも続いて、大
満足の様子の快斗に、新一は内心ほっと息を吐いた。
そしてデザートはティラミス。
絶妙な甘さとほろ苦さが口の中で溶けて、快斗の顔もだらしなく蕩け
た。
ディナーの後はリビングで寛ぎながら食後のコーヒーを飲んでいたが、
不意に快斗が、放ってあった鞄を引き寄せて中を探り始めた。
「なあ、これ見ねぇ?」
取り出してみせたのはDVD。
準新作で、アクション系のコメディだ。
「いいぜ。それ、俺も見たことないんだよな」
慣れたようにディスクをセットする快斗の後ろ姿を見ていた新一は、
唐突に立ち上がってリビングを出た。
リモコンを持ってスタンバイしていた快斗は、程なくして戻ってきた
新一の手に高そうなウィスキーの瓶を見つける。
「せっかくだからさ、ちょっと飲まねぇ?」
「大賛成。でもいいのかよ、そんな高そうなやつ。工藤のお父さんの
とかじゃ……」
「いいんだよ、どうせ貰いもんだし。たくさんあるから、一本くらい
拝借したって問題ない」
「そ? ならありがたく」
瓶をガラステーブルに置いてから、グラスとアイスペールを取りに、
新一はキッチンに戻った。
「…………」
ジーンズのポケットにそっと手を差し込む。
カサリ、と触れた包み紙に緊張が高まった。
「黒羽ー、ロックグラスでいいよなー?」
キッチンから呼びかけると、「おー」という声が返ってくる。
一度水にくぐらせた透明な氷を、トングで二つのロックグラスに詰め
る。
それから呼吸を止め、リビングの方の気配を探り、動きがないことを
確認した。
ポケットから紙の包みを取り出す。
少しも音を立てないように慎重に包み紙を破り、中身を片方のグラス
の中にすっかり空ける。さらさらと氷の上に着地したごく少量の白い
粉は、氷の表面の水気にさっと溶けて見えなくなった。
念のためマドラーでがらがらと氷を掻き混ぜながら、毒殺を企ててい
る人の気分を少し理解できる気がした。
「ほらよ」
何食わぬ顔で、快斗の前にグラスを置く。
ウィスキーを注ぐと、グラスの中でカラリと氷が踊った。
快斗が待ちかねたように再生ボタンを押す。
その隣で、新一はどくどくと鳴る心臓の音が聞かれやしないかと汗を
握っていた。
新一は大学で黒羽快斗に出会う前から、怪盗キッドに恋をしていた。
捕まえられそうで捕まえられない。
逃げられれば余計に追いたくなって、いつかこの腕の中に閉じ込めた
いと思うようになった。それが恋だと気づいたのは、隣家の小さな科
学者に指摘されてから。
だがそれからすぐに怪盗は引退宣言をし、新一の前からも姿を消して
しまった。
悲嘆に暮れていた新一の前に、月とは一転、太陽のようなマジシャン
が現れた時、新一は抑えこんでいた恋心が再び芽吹くのを感じた。
毎日のように日の下で冗談を言い合い、気のおけない親友にまでなっ
た。
――あいつってマジックしてる時ホント可愛くてさー。気取ってみせ
てんだけど、目がキラキラしてて子供みてぇなの。あとアイス食べて
る時も。周りの奴らはカッコいいって言うけど、俺には可愛くて可愛
くて……あの髪の毛もやわらけぇんだろうなー。うぁー、抱きしめて
ぐりぐりしてぇ。
不本意ながらも新一の恋の相談相手と化していた少女は、新一のだだ
漏れの本音を聞いて盛大に顔を顰めた。
――……一応聞くけど、あなたは黒羽君を抱きたいの? 抱かれたい
の?
――ぅえっ? そりゃ……抱き、たい。……え、てか俺が抱かれると
かありえなくねぇ? あいつあんなに可愛いのに。
それを聞いた哀は肩を竦めただけで、何も言わなかった。
キッドの時は確かにカッコいいと思うこともあったが、黒羽快斗はと
にかく可愛い。
だが男同士であることに変わりはなくて、碌なアプローチもかけられ
ずに新一の忍耐は限界に来ていた。
黒羽快斗を抱きたい。
長く燻らせた想いは、告白を飛び越してそんな欲で新一を支配した。
そんな時、何かの折で白馬との会話の中で、催淫効果のある薬――い
わゆる媚薬の話がちらりと上った。最近白馬が関わった事件の関係者
が所持していたらしい。
友人に下心を持って薬を盛るなんて立派な犯罪行為だ。
さすがに無理やりは駄目だが、たとえ本番に持ち込めなくとも、少し
でも新一をそういう対象として意識してほしい……
新一は白馬に無理を言って、薬を手に入れたのだった。
互いにちびちび飲みながら最初の数分を見るが、横目でさりげなく見
た快斗のグラスの中身がほとんど減っていないことに気づいて、新一
は焦りを感じ始めた。
というより、グラスが気になって映画に集中できない。緊張で息が詰
まりそうだ。
「そうだ、何かつまみでも作ってくるな」
気分転換のつもりで立ち上がる。
停めとこうか、と言った快斗に首を振った。テンポの良いコメディと
アクションがほとんどの、内容なんて大してない映画だ。
キッチンで一人つまみを拵えながら、気を落ち着かせる。
焦って不審に思われたらアウトだ。何と言っても相手は人間観察のプ
ロ中のプロなのだから。
色とりどりのつまみが乗った皿を持って、リビングに戻る。
新鮮なトマトとモッツァレラチーズとバジルのカプレーゼ。
そしてオリーブとカマンベールチーズ、ポークテリーヌ、アボカドと
エビなど種類豊富なトッピングのカナッペ。
あれほど腹いっぱい食べた後だというのに快斗はわくわくと皿に手を
伸ばした。
カナッペを頬張って浮かべる無邪気な笑顔が可愛い。
ふと見ると、快斗のグラスのウィスキーは半分ほど減っていた。新一
がつまみを作っている間に飲んだらしい。
内心でほっと息を吐く。
さっきまでは快斗のグラスが気になって碌に飲んでいなかった新一だ
が、今度はちゃんと味わえる。そもそもが良いウィスキーなのだ。味
わわなければもったいない。
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