(17)
三宮を送り出して、新一は深い溜息をついた。
昨夜は色々なことがありすぎた。
人質の命を賭けた誘拐犯との交渉に、警視庁の襲撃。
夜明け前に起こったことが不幸中の幸いで、処理に追われている警察はま
だ緘口令を敷いているが、今日中には正式な発表があるだろう。そうすれ
ばいくら警察が報道に規制をかけたところで、川口の犯行動機から過去の
事件、新一の関与まで明るみになるのは避けられない。
マスメディアへの露出は極力避けていたというのに、これから暫く周りが
騒がしくなりそうだ。
新一を映した映像データを快斗がくすねるなんて真似をしなければいいが。
不安だ。
一夜明けて、胸の痛みはもう消えたが、痛みの記憶はまだ鮮明だ。
思考が鈍り始めて、極度の精神的疲労からどうしていいかわからなくなっ
た。足を前に動かすことすら怖くなって、立ち尽くすところだった瞬間、
身体を包み込まれるように、温かい腕に支えられた。
何も考えなくていい。無条件にすべてを預けて眠れる腕。
耳元で心地よい声が囁いて、新一の警戒心を溶かす。自衛のために積み上
げていた壁がいともたやすく崩れ去った。
すべての人間を助けられるなどと思ってはいないし、その傲慢さが逆に命
取りになることも知っている。
あと一歩のところで助けられなかった人たちは五万といる。その一人一人
の無念に囚われていたら前には進めない。
けれど、だからこそ助けられるのなら助けたいし、助けられなかった時の
悲しみは慣れるものじゃない。
生気を失った身体を目にするたびに、自戒のように自覚する。自分はただ
の人間で、奇跡のように人間を救う神や天使などではないのだと。
だが、それをわかってくれる人は存外少ない。
滅多にないことだが、新一が精神的に落ちた時、快斗はいつもの何倍も、
でろでろに甘やかしてくれる。そういう時の新一は大抵、人形のように無
口になるが、何も言わなくても快斗は新一の望みを嗅ぎ取って叶えてくれ
るし、新一が自覚すらしていない望みも先回りして汲み取ってくれる。
砂糖菓子に蜂蜜とシロップをかけたようなそれは、思わずむせ返るほどの
甘ったるさだが、そうして甘やかす快斗がこの上なく幸せそうに見えるか
ら、新一も黙って享受する。
二人だけの閉ざされた空間で殆どずっと密着して過ごす濃密な時間が、新
一にとって快斗が必要不可欠な存在であると同時に、快斗にとってもやは
り新一が必要不可欠な存在であると教えてくれる。
人の秘密を暴く探偵である限り、恨みを買うのは必至だ。それが探偵の業
であると、新一は理解していた。
事件を解決したからといって、被害者側の人間から感謝されるばかりでは
ない。
どうして助けてくれなかったの、とあの時少女が見せた涙が忘れられない。
今でも思い出すたび胸が苦しくなる。
だが、その記憶が新一を強くしている糧でもあるのだ。彼女は知らないだ
ろうけれど。
だからあの時縋って詰まってくれたことをどこか感謝すらしているのに、
それを上手く彼女に伝えられない。
今回の事件の詳細は快斗から聞いているだろうから、罪悪感を覚えている
であろう彼女とは顔を合わせづらい。本当はそんな罪悪感に苦しんでなど
ほしくないというのに。
こんな時、快斗ならもっと上手く立ち回るんだろうか。
三宮が隣に行ってからだいぶ経つ。
午後の郵便物をチェックしに、新一は玄関を出た。
いくつかの封筒とチラシ。
重要そうなのはないかとその場で送り主をチェックしていると、ダイレク
トメールに紛れる、見覚えのありすぎる白い封筒を見つけた。まさかと触
れた瞬間、高級感のある紙の感触に、確信していた。
そしてそれと同時に、様々な記憶が新一の頭の中を駆け巡る。
とある名家の蔵に保管されていた芸術品の数々を現在都内の美術館で展示
していて、明後日が公開最終日であること。
ここ最近、快斗が何やら忙しそうにしていたこと。
昨夜事件があった時、なぜか快斗がタイミングよく警視庁に潜入していた
こと。
あの時新一を支えたSITの隊員の腕は、確かによく知る恋人のものだっ
た。何でいるのかと驚きはしたが正直あの時はそれどころではなくて詮索
しなかった……今思うと、二課に予告状を届けに、たまたま警視庁に潜入
していたのだろう。
「あんの馬鹿……何考えてんだ」
新一はきゅっと眉を寄せた。
こうしてわざわざ予告状を投函してきたということはつまり、新一を現場
に招待しているということ。
予告日まで日にちがないからか、予告状は暗号ではなく至って率直な文面
だ。犯行予告日が明後日の夜ということは、まだ三宮がいるではないか。
三宮を現場に連れてこいということか。まさか、彼を自分のショーに招待
したくてわざわざ……なんて考えたくもないが、ありえそうで怖い。
険しい顔で封筒を睨みつけていると、三宮が帰ってきた。
夜中、三宮が寝たのを見計らって新一は電話をかけた。
一コール目の途中で繋がったところをみるに、相手も待っていたのだろう。
『どうした?』
「どうしたじゃねぇよクソ怪盗。どういうつもりだ、ああ?」
『あれ新ちゃん普段の二割増しで口悪くない?』
だが快斗も当然新一の言いたいことはわかっているわけで。
溜息が聞こえてくる。溜息吐きたいのはこっちだという言葉をぐっと堪え
て待った。
『だって仕方ねぇじゃん、明後日最終日なんだし』
「個人宅の倉所蔵のものだろ? 後からいつでも確認しに入ればいいじゃ
ねぇか」
何も警備の厳しくなる展示会に盗みに入らなくとも。
だがそう言いながら、それに対する答えは予想できていた。
『俺はこそこそ盗むそこらへんの泥棒じゃねぇの。華麗な手口で大胆不敵
に盗む怪盗キッ――』
「あーはいはい」
ひどくね?!と大げさに嘆く声はスルーする。
だが、実際のところ最近のキッドの犯行は以前ほど派手なパフォーマンス
ではなくなった。
ショーに対する高い意識は変わらないが、組織を瓦解させてからというも
の、組織を誘き出す意味合いもあった目立つ立ち回りは格段に減っている。
ターゲットによってはメディアに取り沙汰されないうちに犯行を行ってい
る場合もあるのだ。
「まさかオメー、三宮さんにキッドとして会いたいとかじゃねぇよな」
『そりゃもちろん、キッドのショーを間近で見てもらいたいっつー気持ち
はあるぜ』
「あんのかよ」
『妬かない妬かない』
「妬いてんのはオメーだろが」
シャンプーを変えさせたり、洗濯を分けさせたり、お揃いのエプロンを着
けたり。
サインを欲しがったり一緒にゲームをしたりするほど三宮を慕っているの
に、変な独占欲が快斗の中で同居しているようだ。
新一が呆れ返って溜息を吐くと、受話器の向こうからは沈黙が返ってきた。
唐突な流れの変化に、新一は眉をひそめた。
「……? 何だよ」
『……新一さ。何怖がってんの?』
快斗の声はさっきまでと打って変わって静かで単調だった。
突然変わった空気に、妙な焦りを覚える。
「……は? 何言ってんだ?」
『三宮さんがただの一般人なのはわかるし、できるだけ事件に近づけたく
ないのはわかる』
「…………」
『けど、この十日間はあの人が自分で望んだものだ。たとえ何かあっても、
新一が自分を責める必要はないよ』
「……でも……」
『大丈夫だからそんなに気を張り詰めるなよ。それに今度は大丈夫だろ。
何てったって怪盗キッドのショーはただの盗みじゃない――観客、それも
招待客はきっちり楽しませるのが信条なんでね』
格好つけて言っているが、要は「俺がいるから心配するな」ということだ。
快斗の言葉の意味を正しく受け取って、新一は柔らかな苦笑を浮かべた。
こんなことで恋人に心配をかけてしまうなんて、自分もまだまだだ。
「……わかった。けど、俺を招待したからには覚悟しろよ? 三宮さんが
一緒だからって油断してっと、捕まえてやるからな」
『名探偵相手に油断なんかしねぇっての。望むところだぜ』
煽るように言うと、打てば響くように愉しげな声が返ってくる。電話の向
こうで不敵な笑みを浮かべているのが見えるようだった。
お、おおお待たせしました……
話が進まない……けどもう終盤です。
2013/11/12