(16)






















新一から連絡を受けていたのかそれとも予想していたのか、哀は驚く様子
もなく三宮を迎え入れた。
何が行われるのかもわからずに緊張していると、リビングに通されて温か
いコーヒーとお茶請けのクッキーを出してくれる。

斜め隣のソファーに座った哀に問われて、工藤邸での生活や、新一・快斗
とのやり取りについて軽くお喋りをする。
快斗とゲームで対戦したことを話して緊張がすっかり解れてきたところで、
哀が遭遇した強盗事件のことを尋ねてきた。

人質が銃をつきつけられたこと。
新一の自信に溢れた態度と犯人との交渉について。
男が被っていたマスク。
最後の犯人にナイフで襲われそうになったこと。

次に、ケーキ屋で蘭と遭遇したことを話した。
ふと、快斗はチョコレートが好きかと尋ねれば、「常に持ち歩いているん
じゃないかしら」と返ってきた。それがおやつなのか、マジック用なのか
はわからないが。

それから誘拐事件で警視庁に呼ばれ、一段落したところで警視庁に乗り込
んできた男の話をした。

そして今朝新一と別れ眠りにつくと、嫌な夢を見たこと。
細かい内容は両手に掬った砂のようにどんどん記憶から取りこぼされてし
まって、もうおぼろげにしか覚えていない。だが目覚めた時の心臓の早鐘
は忘れられそうになかった。

「軽いPTSDね」

え?と三宮は驚いて哀を凝視した。
 
「PTSDって、あの、よく過去のトラウマとかで……」
「ええ。まあ、一口にPTSDと言っても軽度から重度まで、症状は様々
だけど。要はあなたが精神的ショックを受けているということよ」
「ショック……」
「工藤くんといることで、たった数日の間に、あまりに非日常的な出来事
に何度も遭遇した。それだけでも十分ショックなことよ」
 
例えば、と哀が言う。
 
「毎朝きちんと歯を磨く人が、その日はたまたま時間がなくて歯を磨かず
に家を出た」
「え? それだけで?」
「さすがにそれだけで症状が出る人はいないでしょうけど、ルーティーン
が崩れるだけでストレスになるということよ」
 
あるいは、と哀が続ける。
 
「ある日、たまたま買ってみた宝くじが当たって三億円手に入った」
「え、それはいいことなんじゃ……」
「いいことでもストレスになるのよ。ストレスというのはつまり刺激とい
うことだから。この数日間はあなたにとって、何も悪い思い出ばかりじゃ
ないでしょう? 工藤君や黒羽君に出会って、未知の体験をして、わくわ
くしたりドキドキしたり、時には恐怖したり。いいことも悪いことも、落
ち着く間もなく次々とあなたの身に降りかかってきた。あなたの精神は、
その絶え間ないストレスに最初の警報を鳴らした、ってところかしら」
「それが、今朝の悪夢……」
 
哀の言葉を、三宮は呆然と聞いていた。
 
「……ストレスには、結構慣れてると思ってたけど」
「そうね。長いこと経験してきた芸能界の仕事のストレスには、慣れてい
ると思うわよ。でも工藤君にとって日常である事件は、あなたにとっての
非日常なのよ」
 
そう言うと、哀は自分と三宮のカップを持って立ち上がった。
オープンキッチンでコーヒーを注ぎ足して、すぐに戻ってくる。
温かいコーヒーを飲むと、気持ちの整理をする余裕ができた。
 
「……でも、わからないことがあるんだ。何であんなふうに、追われてる
夢を見たのか……俺は大勢の人に責められていた。たぶん探偵として、だ
と思う」
 
哀はしばし黙って三宮を見つめていた。その目に責めるような色はないが、
居心地が悪くて三宮は手元のカップに視線を落とした。
 
「……それは」
 
哀が口を開く。何か重要な決意を凝縮したような声音だった。
 
「あなたが思い描いていた探偵像が、裏切られたからじゃないかしら」
「俺の、探偵像……」
「探偵は事件を解決して人を助ける。探偵の推理のおかげで悪人が捕まっ
て万事解決。探偵はヒーローだって、あなたそう思っていたんじゃない?」
 
三宮ははっと息を呑んだ。図星だったからではない。哀が初めて、苦しそ
うな、悲しそうな目をしたからだ。
 
「探偵は推理をして犯人を提示するけれど、それで事件が終わるわけじゃ
ないのよ。事件に関わった人間は、ずっとその記憶を抱えて生きていかな
くてはならない。大切なものを奪われた傷、ひとの大切なものを奪ってし
まった傷。それにすべての犯人が単純に悪人というわけでもない。優しい
心と悲しい決意を持って罪を犯してしまう人たちも大勢いるのよ」
 
三宮は何か言おうと口を開いたが、何と言えばいいのかわからずに結局閉
じた。
 
「警視庁を襲撃してきた男の話を聞いた時、あなた、どう思ったかしら」
「どうって……とんだ逆恨みだと思ったよ」
「ええ、そうね……妹さんの殺害に間に合わなかったのは工藤君のせいで
はないから、しかたない――そうでしょう?」
「そうだね」
 
哀の言わんとしていることが掴めずに、緊張した面持ちで同意する。
 
「でももしあなたがその川口という男の立場だったら……本当に、そう思
えるかしら」
「え?」
「探偵なら――工藤新一なら何とかしてくれると、そう、思ったんじゃな
いかしら」
 
三宮はぎくりとした。
それは覚えのありすぎる感情だった。
あの工藤新一なら――凶悪な強盗相手に立ち回り誘拐された幼子を無傷で
救い出せるほどの名探偵なら、どんな事件でも颯爽と救いの手を差し伸べ
華麗に解決してしまえるのではないか――。
 
あの時、衝動のままに高木に言った「しかたないじゃないですか」という
自分の言葉が嫌に空虚だった理由を悟って、三宮は頭を殴られたかのよう
な衝撃を覚えた。
本当にしかたがないと、自分は思えていたのだろうか。
 
「探偵は、すべてを解決してくれる万能なヒーローじゃないのよ。まして
人の心の問題なんて……。彼は被害者とも加害者とも変わらない、一人の
人間よ……あの人に、神に乞う救いを求めないで」
 
何も言い返すことができなかった。
自分が独りよがりで作り上げていた探偵像を、工藤新一というただの青年
に押し付けていた。
 
思わず自嘲が漏れる。
強さも弱さも、名探偵の本来の姿を見るために来たのに、見ていたのは自
分の見たい名探偵像だけだったなんて。
 
 
哀が立ち上がる。その空気ですぐにわかった。話はこれで終わり、という
意味だ。
 
三宮も立ち上がって、「ありがとう」とその小さな少女に言った。不思議
なものだ。ソファに座って話をしている間は、彼女がこんなに小さな子供
だということをすっかり忘れていた。
 
玄関まで三宮に付き添いながら、哀が言う。
 
「私はあなたに治療法を提案することも、薬を処方することはできないわ。
工藤君の主治医であって、精神科の専門医ではないから」
 
でも暫くしてもまた悪夢を繰り返し見るようなら、信頼できる人を紹介す
る、という哀の言葉に礼を言いながらも、自分はきっともう大丈夫だろう
と、そんな確信があった。
 
「そういえば」
 
靴を履きながら、三宮は思い出したように振り返った。
 
「工藤君、しばらくこっちに顔出さないようなこと言ってたけど、何かあ
ったの?」
 
言い終わった時すでに、三宮は聞いたことを後悔していた。表情をあまり
動かさない哀が微かに笑みを浮かべていたからだ。自嘲の笑みを。
 
「昨夜警視庁で何があったかは黒羽君に聞いたわ……あなたには偉そうな
こと言ったけど、私も同罪よ。工藤君に多くを求めすぎて、苦しめた。た
った一度、彼に泣いて縋ってしまった私の浅はかさが、彼の中に傷を残し
てしまった……だから今は、私には会わない方がいいのよ」
 
哀が泣いてしまうのではないかと思ってドキッとした三宮だったが、その
目は少しも潤んでいなかった。だが逆にガラスのように澄んだ瞳に、胸が
締め付けられるように痛む。
 
「……何も知らない他人の俺が言うことじゃないかもしれないけど」
 
三宮はせめて誠意が伝わるようにと、しっかりと哀の目を見つめながら口
を開いた。
 
「工藤君が優しい人だっていうのはわかるよ。君を大切に思っていること
も。だからきっと彼にとっては、哀ちゃんが罪悪感を抱えて生きてること
の方が辛いと思う」
「三宮さん……」
「工藤君は、犯罪行為を咎めながら、いろんな悲しみや憎しみを赦せてし
まう、そんな人だからついみんな縋りたくなっちゃうんだ。……でも彼が
悲しい時には、寄りかかって甘えられる人がいるよね? 君もその一人だ
と、俺は思うんだけど」
 
どうかな、と自信なさそうに言った三宮に、哀はふわりと笑って頷いた。
 
 
 
 
 
 



来た時とは打って変わって晴れやかな気分で工藤邸に戻る。
すると、門の中で新一が難しい顔をして立っているのが見えた。

「工藤君?」

三宮の呼びかけに顔を上げた新一が、門を開けてくれる。

「どうでした?」

新一の短い問いに、もう大丈夫だと示すために三宮は微笑んだ。

「哀ちゃんと話させてくれてありがとう」

本当は新一にも謝りたい気分だったが、それは口にすべきではないのだろ
うと察した。
言わなくとも、新一には伝わっているような気がした。

「それより、どうかした?」

新一が外、というか郵便受けの前に立っていたことに、三宮は首を傾げた。
新一が視線を落とした先には、いくつかのDMらしき封筒に交ざり、一通
の白い封筒が。

新一は困惑したような表情を浮かべて言った。

「……怪盗キッドの予告状です」








 










三宮さんへの説教回でした。
PTSD云々についてのところは適当なので流してください〜。


2013/10/31