(15)
今度こそ警視庁の建物を出た時、空はすでに白みかけていた。
人通りも車通りもほとんどない街に、徹夜明けの早朝特有の開放感を感
じて、少しおかしくなった。夜の間にどんなことが起ころうと、夜が明
ければすべてがリセットされるようだ。
ふと、警視庁の前に、停められた車に凭れかかるようにして立つ人影が
あることに気がついた。
「新一」
人影が、一歩前を歩く探偵を呼ぶ。
「快斗……」
新一が些か覚束ない足取りで、人影――黒羽快斗に近寄っていった。
「黒羽君? どうしてここに……」
連絡をもらって、迎えにきたのだろうか。
だが、快斗は答えない。
快斗のもとへ辿りついた新一は、快斗の胸に抱き寄せられるように凭れ
た。それとも倒れかかったのを快斗が支えたのか。いずれにせよ、なす
がままの新一に三宮は驚く。
川口尚吾と対峙していた時の覇気は嘘のように、生気が抜けたような新
一は、快斗に身を預けたまま動こうとしない。
「一緒に帰ろ」
快斗が新一の耳元に囁く。一音一音、落としこむように。
「大丈夫だ。俺がいるから。今だけは、何も考えなくていい」
新一の頭が僅かに縦に動く。
快斗はようやく三宮に顔を向けると、くすっと笑った。その笑みが何を
意味するのかわからなくて戸惑う。
三宮の戸惑いをよそに、快斗は言った。
「この人、ちょっと預かるから」
「え、でも……」
一体どこに連れていくというのか。
「合鍵は持ってるでしょ? ……この状態のこいつを、他の奴に任せる
なんて冗談じゃないから」
そう言うと快斗は新一を助手席に座らせて、さっさと運転席に乗り込ん
でしまった。
閑散とした大通りを颯爽と去っていく車を見送りながら、三宮はしばら
くぶりの独りの感覚を思い出して立ちつくした。
***
夢を見た。
探偵レッドジャケットの衣装を着て、知らないセットの中に立っている。
ライトを浴びて、大勢の視線を集める中、自信満々に犯人役の男をびし
っと指差す。
『あんたが彼女を殺した犯人だ!』
証拠も揃っている。この後、犯人役の男はがくりと膝を折って――
だが、男は台本のト書き通り崩れ落ちることもなければ、悲痛な声を漏
らすこともなかった。それどころか、怒りの形相を浮かべ、掴みかから
んばかりに詰め寄り睨みつけてくる。
『お前のせいだ! お前のせいだ!』
おかしい。そんな台詞、台本のどこにも書いていない。男は演技とは思
えないような鬼気迫る表情でさらに詰めよってくる。
三宮は怖くなって逃げ出した。
男が追いかけてくる。いや、追いかけてくるのは男だけではなかった。
いつの間にか増えていたギャラリーが、大群となって追ってくる。
急に足が重くなって、三宮は走り続けることができなくなった。足だけ
じゃない、体全体が鉛を詰めこんだように重い。立っていることすらで
きなくなって、気がつくと三宮は地面に倒れこみ、誰かにのしかかられ
ていた。
それが誰なのかはよくわからない。見たことのない顔だ。
男だと思っていたその人物は、気がつくと途中で女の顔に変わっている。
めちゃくちゃだ。
そいつはにやにや嫌な笑いを浮かべている。
『“しかたない”だって! 何が“しかたない”って? 嘘吐き野郎』
何を言われているのかわからない。
『探偵はヒーローなんだろ!』
気がつくと、自分の胴に爆弾が巻きつけられている。
『うわあああ!!』
わけもわからず外そうとするが、びくともしない。
自分にのしかかっている人は消えていて、代わりに大勢の人間に囲まれ
て見下ろされていた。
右に左にゆらゆら揺れながら、亡霊のように迫ってくる。
『お前さえいなければ……』
『探偵のくせに役立たず……』
『お前のせいで……』
亡霊の表情は怒り、嘆き、恨めしげに怨嗟の声を響かせる。
急に場面は変わって、三宮はいつの間にか家の中にいた。工藤邸のリビ
ングだ。
目の前に新一が立っていて、その隣には肩に腕を回している快斗。
『足手まといなんですよ』
『何もわかってないくせに』
新一は不機嫌そうに、快斗は嘲るように言った。
そして突然の暗闇の中、誰かが黒く光る銃を突きつけた。銃口を向けら
れているには自分なのか、それとも別の誰かなのか。
光も音も欠落した世界で、静かに命の消える音がした。
***
三宮が昼過ぎに起き出してくると、階下から微かな音が聞こえてきて、
三宮は慌てて階段を下りた。
音のする方――キッチンを恐る恐る覗きこむと、そこには、エプロンを
かけて料理をする新一の姿が。
三宮が声をかけるまでもなく新一が振り向いた。
「あ、おはようございます。よく眠れました?」
「え、ああ、うん……」
あの後快斗とどこへ行ったのかとか、あんな抜けがらのような状態にな
った原因だとか、いつの間に家に戻ってきたのかとか、もう大丈夫なの
かとか、聞きた事はいっぱいあるが、そのどれもが音にはならなかった。
「今ちょうど昼ご飯できますから。あんかけそばで良いですか?」
「あ、うん。ありがとう」
中華だしの良い香りを吸いこむと、急に空腹を覚え始めた。
とりあえず喉が渇いたので、麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けた。
その時、昨夜までは隅に置いてあった小さなケーキの箱がなくなってい
ることに気づいた。誰にとはっきり言っていたわけではないが、快斗の
ものだろうと何となく思った。なくなっているということは、今朝ここ
に寄っていったのだろうか。
「あれ?」
あんかけそばの皿を受け取った時に、新一の胸元に目が留まった。
「どうかしました?」
「えっと……そのエプロンの刺繍って、クローバーだったっけ」
「え?」
新一が胸元に目を落とす。黒地に四葉のクローバーが丁寧に刺繍されて
いる。
「あれは黒羽君のエプロンだったんだ」
「!」
数日前、遊びにきた快斗と一緒に昼食の準備をした時、快斗は胸元に白
い鳩の刺繍を施した黒いエプロンをつけていた。新一も黒いエプロンを
持っていることは知っていたから、その時はてっきり新一のを借りたの
かと思っていたのだが。
ハッとする新一に気づかずに、三宮は続けた。
「もしかしておそろい?」
「え、いえっ……両方とも俺のなんですけど、あいつが来た時に片方貸
してるだけです」
新一は淀みなく言ったが、三宮は相槌を打ちながらもそれを信じてはい
なかった。鳩の刺繍なんて、マジシャンである彼のためにあるような模
様ではないか。
向かい合って座り、一緒に手を合わせて「いただきます」。
満足そうにあんかけそばを頬張る新一には、普段とどこも変わった様子
はないようだった。
「それで、三宮さん」
食後、二人分のコーヒーを持ってリビングにやってきた新一が、ごく自
然な流れで口火を切った。
「何があったんですか?」
「え?」
ずいぶんとまた唐突な質問だ。ここ数日で感じたが、新一の周りの人間
は、彼本人含めて抽象的な物言いをする人間が多い。それくらい察しろ
という意味か、それとも察せなければそれはそれでいいと思っているの
か。
「顔色が悪いですよ」
「そうかな」
思い当たることがあるから即答で誤魔化す。
あの夢のせいだ。
だが、予想外にも新一は流してくれなかった。
「何があったんですか」
同じ問いを、さっきよりも断定的な口調で繰り返す。
その反応が、少し意外だった。
新一が、三宮と個人的にあまり深く関わり合いたくなさそうなのは、初
日からわかっていたことだ。だから今回も関係ないと、突っ込んで聞い
てはこないと思っていたのに。
「詳しくは聞きません。でもあなたに何が起こったのかだけは、話して
ください」
新一はゆったりとした口調で言う。
推理を話す時や犯人と取引する時とはまるで違う。だが、その目には逃
げを許さない鋭さが見て取れた。
「……夢を見たんだ」
ため息混じりに言うと、新一はコーヒーカップを置いた。
「あなたは何を見たんです?」
「あまり覚えてないんだけど……大勢の人に追いかけられて、何かを責
められてたような……」
すると、新一は深い溜息を吐いた。
「三宮さん……隣に、行ってきてくれますか」
「え? 隣?」
「はい。灰原に、会ってきてください」
「哀ちゃんに?」
脈絡のない話に首を捻りながら、大人びた少女の顔を思い浮かべる。
小学生ながら確か優秀な科学者であると紹介された気がするが、今の話
とどう繋がるのか。
「それで今の話を、彼女にしてください」
「えっと……理由を聞いても?」
すると新一は少しだけ口元を緩めた。眉の下がった、力ない笑い方だ。
「こういうことは、俺より彼女の方が頼りがいがあるんです。俺では、
力不足です」
正直それは何の説明にもなっていないと三宮は思ったが、新一の情けな
い表情に、何も言い返す気にはなれなかった。
新一に急き立てられるように、三宮は工藤邸を出た。
「工藤君は一緒に行かないの?」
玄関まで見送りにきた新一にそう問うと、新一は困ったような、またあ
の情けない顔をした。
「俺は、今はちょっと……行かない方がいいんです」
すみません、と謝った新一にそれ以上問うこともできなかった。
2013/10/25
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