目を開ける前に、左手に温もりを感じた。

ゆっくりと瞼を押し上げると、真っ先に視界に映ったのは見覚えの
ある天井。視線を巡らして、そこが米花中央病院の病室であること
を確認した。

硬くなった筋肉を動かして首を回すと、ベッドに突っ伏して眠って
いる男に気づく。その手は布団の上で新一の手を握っていて、左手
の温もりの正体を知る。

眠っているくせにしっかりと手を握って離れないものだから、新一
はしかたなく右手を持ち上げて、彼の頭に触れた。
ふわふわとやわらかくはねた髪を梳くように撫でても、起きる気配
はない。

しばらくそうしてひたすら彼の髪の感触を楽しんでいると、静かな
足音が聞こえてきて、個室の扉がガラリと開いた。

「あら。気がついたのね」

現れた少女が落ち着き払った様子で言って、中に入ってくる。再び
戸が閉まるのを待って、新一は尋ねた。

「どれくらい寝てた?」
「丸4日よ。彼に感謝するのね。彼が傍にいなければ、死んでたか
もしれないわよ」
「え?」

新一はいまだ眠り続ける快斗を見た。

「黒羽が……?」
「ええ。病院に運ばれてからも、彼、ずっと寝ないであなたの傍を
離れようとしなかったの。あまりに酷い顔してるのに強情だから、
さっき麻酔を撃ち込んでやったわ」
「おいおい……」
「まあ、そろそろ起きる頃でしょうけど」

水の入ったコップにストローを差して差し出した哀に、礼を言って
受け取る。
快斗はまだ寝息を立てているが、横顔を覗きこめば目元に濃い隈が
あるのが見てとれた。

「……迷惑、かけちまったみてぇだな」
「そう思うなら余計な怪我はしないことね」

そう言う哀も態度とは裏腹に心配してくれたのだろう。少しやつれ
た顔をしている。

「それにしても、工藤君が怪盗さんと仲良くなっていたなんてね」
「は?」

いきなり場違いな単語が出てきた気がする。きょとんとして哀を見
ると、哀は変な表情を浮かべた。

「まさか、気づいてなかったの?」
「え……黒羽が、キッド?」

快斗を見て、いやいやいや、と首を振る。確かに共通点はいくつも
あるし、ふとした時の雰囲気も似ている気がするが、それでも新一
には、快斗がキッドでないと断言できる根拠があった。

「だってキッドには羽生えてねーし!」

いくら変装の名人と言えど、羽を生やしたり消したりできるはずが
ない。キッドは人間、快斗は天使。種族からして違うのだ。

「そのことなんだけど」

哀が腕を組み、眉を顰めて新一を見ていた。

「黒羽君は天使じゃないわよ」
「……は?」

一瞬何を言われたのか理解できなくて、新一は呆けた。

「……な、何言ってんだよ。現に今目の前に……」
「羽なんて見えないわ」

きっぱりと言いきった哀が冗談を言っているようには見えなくて、
新一は目を見開いた。

「服部君にも、羽は見えてなかったそうよ」
「嘘だろ……じゃあ、何で……」

自分にだけ見えるのか。
眩くて綺麗な羽が、自分の目にはこんなにもはっきり見えていると
いうのに。

「理由はわからないけど、その羽はあなたにしか見えていないわ。
だから、あの夜狙われたのも、あなたの方だったのよ」
「でも、俺は天使じゃ……」
「服部君が言ってたわ、東京の被害者は悪魔だったって。犯人は天
使悪魔関係なく、大きな羽を持つ見目麗しい人を物色して狙ってい
たのよ。だからあの場で狙われるとしたら、次は工藤君かもしれな
いって」

混乱したまま、新一は快斗を見た。その背中には、今はくたりと萎
れた白い羽が生えている。

「ん……」

ベッドにつっぷしていた頭がもそり、と動く。

「んー……ん? ……あ、俺寝てた……」

ゆるゆると頭を振って、快斗は億劫そうに瞼を押し上げる。
そして新一の顔に焦点が合うや否や、眠そうな空気が嘘のように目
を見開いた。

「っ、新一っ!!!」
「よぉ」
「よ、よかったぁ……!」

快斗が覆いかぶさるように抱きついてくる。もちろん、傷口に負荷
をかけないように。
新一は苦笑して快斗の頭を撫でた。

「まさかこれが怪盗キッドだったとはな……」

ぽつりと呟いた言葉に反応して、快斗が身を起こす。

「は? 今更何言ってんの?」

快斗の困惑した表情に、新一も何と答えたら良いかわからなくて困
った顔をする。思わず哀に視線をやると、哀が溜息をつきながら言
った。

「この人、今の今まであなたが怪盗キッドだって知らなかったのよ」
「はあ? そんなわけないって。だって新一、映画館で俺に『白い
羽』がどうとかって言ったんだよ」
「あー、それはな……」

なるほど、それで快斗は自分に正体を見抜かれたと思ったわけか。
時々感じていた食い違いのような違和感もそのせいか、と納得しつ
つも、快斗が本当は人間であるのなら、天使やら悪魔の説明はすべ
きではない。だが簡単に誤魔化されてくれるような男でもない。

というかいつの間に名前呼びになったんだともちらと思ったが、今
は置いておく。

またしても何と答えたら良いかわからなくて哀を見ると、うんざり
とした表情で肩をすくめられた。自分で考えなさい、といったとこ
ろだろうか。

「あー、その、な?」
「何だよ」
「普通の人間には見えないんだが、俺には、何つーか、羽?みてぇ
なもんが生えててだな……」
「…………」

あら、言うの、と少しばかり好奇心を灯らせた目で哀がこちらを窺
っているのを感じつつ、快斗の反応を見るのが怖くてただただ落ち
た沈黙に耐える。

「………はあ?」

(ですよねー……)

胡乱気に眉を顰めた快斗はいたって正常だ。もっともな反応である。

「えっと、俺だけじゃなくて、ほかにもそういう人はいて……地上
風に言うと天使とか悪魔とかってやつなんだけど……灰原にも生え
てるし」
「はあ……」

快斗が微妙な表情で哀を振り返る。否定せずに肩をすくめただけの
哀に、快斗はそのままの顔で新一に視線を戻した。

「えっと、じゃあ、新一は天使ってこと?」
「いや、俺は悪魔だ」
「えっ」

快斗の目が動揺したように揺れる。

「新一が悪魔?! いやいやいやいや、あり得ないだろ、何それ!」

突然くわっと目を剥いて激しく首を振る快斗に、新一は訝しげに首
を傾げた。

「え、驚くのそこか……? というか、信じるのか、羽のこと」
「まあ、クラスメイトに魔女もいるしな……それに、ほかでもない
新一が言うなら、信じるしかないだろ」
「え……」

新一が目を丸くして見つめると、快斗が照れたように視線を逸らし
た。
何となく、空気が甘くなった気がする。

「私、お邪魔かしら」
「「いっ、いえ滅相もない」」

二人して否定すると、余計に冷たい目で見られた。

「あ、えっと、で、ドクターも悪魔なの?」
「いいえ、私は天使よ」
「えっ、天使と悪魔って、一緒にいて大丈夫なの?」

快斗が新一と哀を見比べる。

「ああ。天使と悪魔がいがみ合ってたのなんて2000年も前の話だか
らな。ただの昔話さ。それに、羽が生えてるってこと以外は人間と
何も変わんねーし」
「へぇ……」

快斗の目は新一の肩のあたりに向けられていた。

「俺も見てみてーな、新一の羽……」
「物理的なもんじゃねーからな……人間の目には見えねーんだ」
「えぇー」

苦笑する新一に、快斗が不満そうに唇を尖らせた。

「……でも新一が悪魔だっていう話が、俺がキッドだってことにど
う関係あるんだ?」
「それがな、実は俺には、お前が天使に見えるんだ」
「……は?」

再び呆けた快斗に、新一が慌てて付け足す。

「比喩的な意味じゃなくてな?! お前の背中に、白くてでかい羽
が見えるんだ」

新一の反芻して、快斗が納得したように呟く。

「ああ、それであの日映画館で『白い羽』って……」
「そういうことだ」
「……俺、天使なの?」

快斗がこてん、と首を傾げて問う。

「それが……」
「見えるのは工藤君だけみたいなのよ」

快斗は哀を振り返って、それからまた新一に顔を戻した。

「……どゆこと?」
「それなんだよなあ」

わずかな身体の動きにつられてふわふわと揺れる羽をじっと見つめ
ながら、新一は唸った。

「……お前、ちょっとキッドになれ」
「はい?」
「キッドの背に羽は見えなかった。だから俺はどうしてもお前とキ
ッドを結びつけられなかったんだ。けど、もしかするとキッドの姿
になると羽が消えるのかも……」
「そんなことあるの? 羽が消えるなんて」
「聞いたことないわね」

哀がバッサリと否定する。
だがものは試しだ、ということで快斗は立ち上がった。そしてベッ
ドに横たわったままの新一を見下ろし、くいっと口角をつりあげた。
その瞬間、快斗の纏う空気が一変する。

「それでは名探偵のご要望にお応えして、この場に月の幻をお連れ
しましょう」

言い終えると同時に大きな白い布が快斗の全身を包み、そして瞬く
間に怪盗キッドが姿を現した。

「……どう? 名探偵」
「……見えない」

新一は難しい顔をしてキッドを観察した。

「黒羽。今、変装する直前に雰囲気だけキッドになったよな?」
「ああ。そうだったかも」
「だが羽が見えなくなったのはオメーが完全に変装してからだ。と
いうことは、羽の出現はオメーの意識じゃなく、格好自体に関係し
てるのかもな」
「……なるほどね」

二人の様子を傍観していた哀が、口を挟んだ。

「キッドの衣装に、何か秘密があるようね」























2013/03/28