新一が退院するのを待って、二人で黒羽家に行った。 「母さん」 快斗が些か緊張した面持ちで、キッチンにいた母、千影に声をかけ た。 「紹介したい奴がいるんだ」 「あら、もしかして高校生探偵の?」 「はじめまして、工藤新一です」 「まあ。有希子さんお元気? もう何年も前だけど、お会いしたこ とがあるのよ」 「ええ、相変わらず破天荒な夫婦です」 新一が苦笑する。 「快斗、部屋に案内しなさい。後でお菓子持っていくわね。ジュー スでいいかしら」 「いえ、おかまいなく……」 「母さん」 遮るように快斗が言った。 「聞きたいことがあるんだ。今日は新一も、そのために来た」 「何かしら?」 新一と快斗は視線を交わして小さく頷き合う。 「羽、のことなんだ」 「羽?」 千影が首を傾げる。 見たところ彼女の背に羽はない。やはり何も知らないかと、新一は 諦めて引こうかと考えたのだが。 「羽……それはもしかして、新一君が持ってるもののことかしら?」 千影の思わぬ言葉に、二人はハッと顔を見合わせた。 彼女に羽が見えるということは。 「もしかして母さんにも羽があるのか?」 「いや、羽はないようだが……ハーフかクオーターですか? 羽は 持っていなくとも見ることはできる、とか」 「親父はっ? 親父はどうだったんだ? 天使だったのか?」 矢継ぎ早に問い出した二人に千影は考えを巡らすように言った。 「うーん、そうねぇ……とりあえず、お茶を淹れるから、リビング で話しましょう」 千影が最近はまっているというハーブティーを淹れてもらい、快斗 と新一は座り心地の良いソファに並んで腰かけた。直角に置かれた 斜向かいのソファに、千影も腰を下ろす。緊張した面持ちの二人と は対照的に、彼女はリラックスした雰囲気でお茶の香りを楽しんで いた。 「それで母さん、どうなんだよ?」 「うーん。どこから話しましょうか……私のことは、元天使、とで も思ってくれればいいのかもしれないわ」 「元?」 その疑問に答えるように、千影が座ったまま腰を捻って、二人に背 中を見せた。 「あっ……」 「え? 何?」 小さく声を上げた新一と、訳がわからない快斗に、千影が言う。 「ずいぶん小さくて薄いけど、羽が見えるでしょう、新一君?」 「はい」 掌で包みこめてしまいそうなほど小ぶりで今にも消えそうなほど透 き通った一対の羽が、千影の背でパタパタと羽ばたいていた。 「元はもっと大きかったのよ。それがある時からだんだん縮んでい って、今はもう申し訳程度にあるようなもの。消滅しかかってる、 と私は思ってるわ」 別段気にしたふうもなく、穏やかな微笑みを浮かべながら千影が言 う。 「それとともに、だんだん他人の羽も薄っすらとしか見えなくなっ てきたわ。だからこんなにはっきり見えるということは、新一君の 羽はとても立派なのね」 「でも、羽がなくなるなんてことあるのか?」 「あまり聞いたことはないけど、でも……」 快斗の疑問に、少し前ならば、まさか、と即座に否定したであろう 新一はしかし、一連の天使殺しの犯人の事情聴取に立ち会った服部 から聞いた話を思い出した。 犯人の男は元々、それなりに大きな羽を持つ天使だったが、ある時、 自分の羽が少しずつ小さくなっていることに気づいた。 そしてあっというまに、大きく美しかった羽は貧相なものになった。 その時男は衝撃を受けた。 立派な羽を持つ美しい天使たちも、何かの要因でその神々しいまで の美しさが損なわれる可能性を秘めているのだということに。 天使の美しさは恒久的でなければならない。 いつか無様に枯れていく美しさならば、一番美しい時に、その命ご と散らせてやろう。 狂気を宿した使命感を持って、男は美しい羽を持つ者を狩り始めた。 いや、男にとっては救済行為だったのだ。 服部が警察の目を誤魔化して何とか聞き出した動機は、思わず塞が りきっていない傷口のことを忘れて怒り狂うほどの馬鹿げた内容だ った。 「母さんが一応天使なのはわかったけど、親父は?」 「それが、よくわからないのよね。初めて出会った時はお互い仕事 の最中で、私には彼の背中に黒い大きな羽が見えたわ」 仕事というのは、怪盗の仕事のことだろう。千影が昔を懐かしむよ うに目を細めた。 「だから言ってあげたのよ。こんな月の明るい夜に、その羽は目立 つわよ、って」 それは忠告だった。 仮にも正体不明の怪盗だ。目立つ羽を晒して仕事をしていたのでは、 羽が見える者に正体を絞り込むヒントを与えているようなものだ。 「でも驚いたことに、彼には自分の羽が見えないらしくてね、天使 や悪魔の存在も知らなかったのよ。だから私が色々教えてあげて、 衣装で羽を一時的に不可視にする方法とかも教えてあげて。そうし てるうちに、いつの間にか恋に落ちてたのよぉ」 「ちょっと待った!」 当時のことを思い出して嬉しそうに語る千影を、快斗が遮る。 「今、衣装で羽を見えなくするって……」 「そうよ。あくまで一時的なものだけどね」 「じゃあやっぱりキッドの衣装に秘密があるんですね」 「あら、新一君は知ってるのね?」 「まあ、色々あったんだよ」 説明が面倒なので快斗は濁したが、快斗がキッドの正体を認めたと いう事実が、千影には正直驚きだった。 これまでどれだけクラスメイトに言い当てられても、幼馴染に疑わ れても、あの手この手を使って決して認めようとはしなかった快斗 だ。それだけ快斗にとって重大な秘密であるキッドを、探偵である はずの新一には打ち明けている。 それだけ、新一の存在が快斗の中で大事な位置を占めるということ だろう。 千影は今日一番の微笑みを浮かべた。 「新一君。もしかしてあなたには、快斗の背に羽が見えてるんじゃ ないかしら?」 「! どうしてそれを……」 「やっぱり、受け継いでいたのね」 「どういうことだよ、母さん」 「新一君が、あなたにとっての唯一ってことよ」 穏やかに、しかしはっきりと言いきった千影に、二人は絶句した。 千影は快斗の目を真っ直ぐに見る。 「盗一さんには間違いなく悪魔の血が流れていた。でも彼の羽は世 界中で私にしか見えなかった。証明することはできないけど、おそ らく、唯一の番いにだけ自らの羽を見せる特殊な家系なのでしょう ね。そしてそれは快斗、あなたにも受け継がれている」 「それって……」 快斗と新一は思わず互いを見て、目が合うと俄かに赤面した。 「え、えーと……」 二人とも同時に視線を逸らし、気恥ずかしげな空気が流れる。 そしてその甘酸っぱい沈黙を割って口を開いたのは快斗だった。 「……あ、っと、ところでさ、衣装で羽を見えなくするなんて、そ んなことできんのか?」 「できるわよ〜。ま、禁術みたいなものでほとんど知られてないん だけどね。実のところ、私の羽が消滅しかかっているのはそれの副 作用みたいなものじゃないかと思ってるわ」 「でも俺、衣装は自分で調達してっけど……」 「服や靴はそうかもしれないけど、あれは盗一さんのものを使って いるでしょう?」 「あっ、モノクル……」 新一が代わりに答える。 微笑んで頷いた千影の前で、快斗はどこからともなくモノクルを取 り出して、おそるおそる装着した。 「……どう?」 「消えた……」 呆然と呟く新一に、快斗はモノクルを外した。 途端、快斗の背に、大輪の花が咲き綻ぶように羽が現れるのを、新 一は息を呑んで見つめた。 送ると言ってついてきた快斗と一緒に、ゆるやかなペースで駅まで の道を歩く。 「なあ新一」 何を話したら良いかわからなくて互いに何となく黙っていたが、そ の沈黙を破るように快斗が呟いた。 「俺は、新一のことが好きだよ」 それは唐突な言葉だった。 だが、黙っている間、新一も二人の関係性についてずっと考えてい たのだから、流れとしては自然だったのかもしれない。 新一が快斗を見ると、快斗も新一を見ていた。 思わず足を止めそうになったが、何とか一歩一歩を踏み出す。 何と言ったら良いかわからなくて、新一はまた前を向いた。横から 快斗の視線を感じる。 帰りがけ、玄関まで見送りにきた千影に、息子をよろしく頼むと小 声でそっと囁かれた。 新一とて、快斗のことは好きだ。恋愛感情で。 その自覚はとっくにある。それこそ、仲良くなってすぐの頃からだ。 でなければ、雰囲気に流されて簡単にキスなんてさせない。 だが、自分でいいのかと、そう迷う。 快斗が唯一羽を見せた相手が新一であるという事実にこだわって、 新一に対して義務を感じているのではないか。 千影の言葉を疑うわけではないが、たかが羽ごときの問題で、快斗 の唯一を決めてほしくない。 「言っとくけど」 黙り込んだ新一に、快斗が言う。 「俺は別に、羽がどうとかで言ってるわけじゃないからな」 「え……」 「そりゃ新一にだけ俺の羽が見えるとか、何か特別みたいで嬉しい けど、でも羽が見えても見えなくても、俺は新一が好きだ。それだ けは誰にも否定させねぇ」 新一の迷いを読みとったように先回りして告げた快斗の目は真っ直 ぐに新一を見つめていて、いつの間にか立ち止まっていたことに気 づいた。 ああ、これは駄目だな、と新一は思った。 こんなに強い目で見つめられて、おまけにその想いの強さを見せつ けるように、彼の背で大きな翼がぶわりと一層強い輝きを放つ。 こんなにも全身で想いをぶつけてくる彼から、逃げられるはずがな い。 思わず緩みかけた口元を誤魔化すように、新一は快斗に顔を近づけ、 頬にぶつかるようにキスをした。 「え……」 新一の突然の行動に、快斗が呆然として頬を押さえる。 「……俺も好きだ」 「新一……」 快斗は新一を抱きしめた。 人気のない路地だ。大人しく抱きしめられながら、新一はそっと腕 を回し、快斗の背に生えている羽に手を翳した。手は白い光をすり 抜けるばかりで触れることは叶わないが、新一には、その羽の光が ほんのりと温かいような気がした。 これにて完結です。 お付き合いいただきありがとうございました! 2013/03/31 |