(7)
とある豪邸の一室で、新一はくつろいでいた。 身体が沈み込む革張りのソファに身を預け、カップから漂う香ばしい香り に目を閉じた。 ここのコーヒーは高級な豆を使っていて新一の肥えた舌にもかなうものだ から、ここに来るといつもついつい長居してしまう。 「それで新一。新しい学校はどうなの?」 向かいに座っているのは幼馴染の毛利蘭と、その隣に彼女の親友でありこ の豪邸の家主の娘、鈴木園子だ。 まあまあ楽しんでるよ、と曖昧な返事をした新一に、園子が急き立てるよ うに尋ねた。 「どうなのよ? 強くてカッコいい殿方がたくさんいるんでしょう? 江 古田高校って言ったら『浪花』の巣だもの!」 「殿方ってオメーな……」 俺が男をチェックしてどうすんだと、と呆れる新一に構わず、園子は一人 妄想の世界に旅立っている。 「がさつで乱暴な不良たちからだけじゃなくて、普通の人たちからも人望 のある頼れるリーダー、服部平次。その周りを固めるのも、服部君が信頼 を寄せるような、腕が立つ男たちなのよ!」 「オメー、ただ惚気たいだけじゃねぇのか」 新一は会ったことはないが、園子の彼氏、京極真は『浪花』の特攻隊長だ。 「実は京極さん、今修行の旅に出ちゃってるのよ」 蘭が困ったような顔をして言う。なるほど、だから園子がいつもの二割増 しで面倒くさいのかと新一は納得したが、間違っても言葉にしたりはしな い。 「へぇ。『浪花』の特攻隊長はいない、と」 それはいいことを聞いた、と新一は緩んだ口元をカップで隠した。 「そういえば、最近新一の噂よく聞くわよ」 「俺の? ……ああ、もう耳に入ってたのか」 「そうよ! 黒い化け猫が出たって、もうみんなその話で持ちきりよ!」 「化け猫はひでーな」 「実際そんな感じじゃないのよ」 園子が半眼で言うのに、新一はにやりと笑うだけに留めた。 「服部君とはもう会ったの?」 「いや。隣のクラスだから、見かけたことはあるけど、話したことはない。 向こうだって、隣のクラスに入った転校生なんて知らないだろうし、ただ の転校生がわざわざ挨拶に行くのも変だろ」 「そうなの? せっかくだから、ついでに私がよろしく言ってたって伝え といてもらおうかと思ったんだけど」 蘭の頼みに、新一は難しい顔をする。 「何て言うんだよ? 『レッドブロッサム』の総長がよろしく言ってまし た、ってか? 俺が何者なのか尋問されるのがオチだぜ」 蘭は空手の達人でありながら、関東最強のレディースチームの総長だった。 ちなみに園子はその参謀だ。 「いいじゃない、私の幼馴染だって言えば」 「それはそれで問題だろ」 孤高の女戦士と謳われる毛利蘭に親しい男がいたなんて情報が広まったり したら、新一は動きにくくなる。せっかく帝丹高校に通っていた時も周り に悟られないよう校内での接触を極力避けていたというのに。本人は気づ いてないが、蘭の戦う姿に惚れる男は多いのだ。 「『浪花』と仲良くしたいなら、和葉ちゃんか真純ちゃんから服部君に話 通してもらうように頼む?」 「いや、それこそいいって」 遠山和葉は『レッドブロッサム』の副総長にして服部平次の彼女。世良真 純は女にして『浪花』の副総長だ。 二人には、新一との関係は服部に黙っておくようにせっかく口止めしたと いうのに、今更ばらされたんじゃおもしろくない。 それに。 「俺『浪花』に喧嘩ふっかけようと思ってるから」 不敵に言い放った新一に、園子が噛みついた。 「ちょっとぉ、京極さんがいない間に何企んでんのよ」 「別に本気で敵対しようと思ってるわけじゃねーよ。ちょっと私怨を晴ら すだけさ」 「私怨?」 先日気絶したふりをしていた時に幹部の一人に蹴られたことに対してなの だが、言ったら絶対に小さい男だと馬鹿にされるのが目に見えているので、 適当にはぐらかす。新一とて、いつまでもそんなこと気にしているわけで はないのだが、退屈しのぎにちょっとした火種がほしいだけだ。 園子は首を傾げていたが、蘭は新一の考えていることを察したのか、呆れ たような顔をしていた。 「楽しむのはいいけど、ほどほどにしなさいよ」 「わあってるって」 新一の軽い調子に、蘭が不意に心配そうな色を浮かべる。 「江古田にはあの人もいるって聞くから……」 「あの人?」 「情報屋の黒燕よ」 その瞬間、黒い闇が新一の脳裏に翻った。 コートの割れた裾がひらりひらりと挑発的に舞う。 暗闇の中に潜み、それでいて強烈な存在感を刻みこむ不思議な男。 「かなり強いらしいし……新一、気をつけてね」 「ああ……」 実はもう会ったなんて言ったら余計に心配をかけそうだから、それは黙っ ておこうと決めた。 蘭が不安げな表情を払拭して、ぱっと顔を輝かせる。 「それで新一、友達はできたの?」 「友達?」 そういえば、『浪花』のことや『黒猫』として動くことに気を取られてい て、あまり学校生活に集中していなかったように思う。 もちろん、持ち前の演技力を駆使してクラスの人間とはこの上なく上手く やっているが、誰か友達と呼べる存在はいただろうか。 数秒考えて、黒羽快斗の顔が浮かんだ。 最近は昼食を共にしているとは言え、相手が自分のことを友人だと思って いるかは微妙な上、自分もあまりあの男を友人というカテゴリーに置いて はいなかったのだが、今のところ一番一緒にいるのは彼な気がする。 だから新一はとりあえず、蘭の質問に頷いておくことにした。 「黒羽っていう奴で、何となく謎の多い奴なんだけどさ。一緒にいるのは 楽だし、それなりに楽しい、気がする」 「そうなの」 新一の曖昧な答えにもかかわらず、蘭は自分のことのように嬉しそうに笑 っていた。 *** カランコロン。 店の扉が開き、現れた人物に、中の話し声が一瞬ぴたりと止んだ。 「や」 カジュアルに片手を上げたその人物に、わっと賑やかな歓声が上がった。 「世良さん!」 「お疲れ様です!」 「お久しぶりです副総長!」 「世良さんが戻ってきたぞー!」 騒がしくなった店内の様子に気づいたのか、奥の扉が開いて服部が顔を覗 かせる。 「世良! お前最近どこ行っとったんや」 「あれ、言ってなかったかい? レッドブロッサムのところにお邪魔して たんだよ」 「そうやなくて! 例の噂は聞いとるんやろ? 京極さんが修業でおらん 今、副総長のお前がいてくれへんと、下の奴らが不安がるやないか」 「噂? ああ、黒猫ちゃんの。何だい、たった一人の族潰しに対してずい ぶん警戒してるじゃないか」 「この間そこそこのチームがやられたんや。黒燕も警戒しとるみたいやし な」 「黒燕くんが?」 世良が意外そうに聞き返す。 そして俯いて何かを考えだした。 「何や? 何か知っとるんか?」 「いや……そう、彼がね……」 「?」 何やらぶつぶつ呟いている世良を服部が訝しげに見る。しかし世良はすぐ に顔を上げると、愉しそうな顔で言った。 「まあ、『黒猫』のことは君が心配しなくても大丈夫だと思うよ。なるよ うになるさ」 「お前なあ……」 服部が大きな溜息を吐いた。 その時。 「世良。戻ったのか」 背後から声がして、世良は一瞬身体を硬くした。 それからそっと息を吐き出して、ゆっくりと振り返る。 「……気配を消して近づかないでくれっていつも言ってるじゃないか、黒 燕くん」 「悪いな。癖みたいなもんだ」 あちこちから「黒燕だ」という囁き声が聞こえる。 「それより世良、お前に聞きたいことがある」 ハットの影の中できらりと光る鋭い目。その場は一気に静まり返った。他 の者たちが固唾を呑んで見守る中、世良は無言で見つめ返す。 やがて唐突にくるりと店内に顔を向けると、世良はにっこりと笑って言っ た。 「それじゃあ、今日は顔を出しにきただけだから。僕はもう帰るよ」 「ええっ? もう帰っちゃうんですか?」 「来たばっかじゃないですか!」 「明日も来てくださいよー!」 惜しむような声が上がり、店内が俄かにうるさくなるが、世良はにこにこ したまま手を振り、戸口に立つ黒燕とすれ違って店を出ていった。 そしてそれを追うように、黒燕も外へと出ていく。 残念がる声がまだ上がっている中、服部だけは、去っていく二人をじっと 見つめていた。 2012/10/24 |