(31)
「てめぇ、ふざけんなよ!」 「ガキがっ、なめやがって!」 罵声を浴びせられる中、動じたふうもなく佇んでいる少年――『黒猫』の足下に は、派手な色の髪をした男が間抜けな顔を晒して伸びている。 今はその仲間と思しき男たちに、絶賛突っかかれ中である。 族潰しという立場上、喧嘩を売ったり買ったりと自由に振る舞う黒猫だが、今回 は売られたものだ。 路地ですれ違いざま足を引っ掛けられそうになったのを避けて、逆に引っかけて やったら、相手がものの見事に転んだのだ。お約束のようにキレられて掴みかか られたところを伸してやった。 所詮、新一の敵ではない。 相手からは酒の匂いがぷんぷんした。 どう見ても未成年だが、新一とてそんな固いことを言うつもりはない。 ただの酔っ払いが無差別に突っかかってきただけだろうと適当に往なそうとした 時、新一を罵っていた一人が、ふと何かに気づいたように目を瞠った。 「……おい、てめぇ、もしかして………」 視線は頭をすっぽりと覆う黒いフードに向けられている。 「まさか、『黒猫』か……?!」 一人の言葉に、他の仲間がどよめく。 新一は何も言わずに、手に持っていた缶コーヒーを飲み干した。 「てめぇが『黒猫』なら話は速ぇ。ちょっと顔貸せよ」 凄んできた相手に、新一は空き缶を手の中で遊ばせながら、にやりと唇を吊り上 げた。 「いいぜ」 ――ちょうどそろそろ遊ぼうと思ってたところだ。 *** 服部のところに連絡が入ったのは、夕食後の鍛錬を終えて風呂から上がった時の ことだった。 冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いでいると、テーブルの上に置きっぱなしに していた携帯が震えた。 喉を潤しながらディスプレイを見ると、珍しい人物からの着信で、服部は嫌な予 感がしながら通話ボタンを押した。 「もしも――」 『服部君!』 さらに珍しいことに、かけてきた相手――『浪花』の副総長・世良は、少し焦っ ているようだった。 「どないしたん」 『本堂君からの情報だ。過激派が動いたらしい!』 「何やて?!」 第二図書室の襲撃者が『黒猫』だという情報がチーム内に広がってから、過激派 が何かを企んでいるのは知っていた。 だが、まさかこんなに早く動くとは予想していなかったのだ。 「何やってこんな急に……」 『仲間は集めてたみたいだけどね……どうやら今夜のことは、計画していたわけ じゃないみたいだよ』 「突発的っちゅうことか?」 『まあ、もともと、黒猫がいつどこに現れるかわかるわけじゃないからね』 「偶然黒猫を見つけて、急遽今夜仕掛けたっちゅうことかいな」 あるいは、黒猫自ら出向いたか。 服部は黒猫の挑発的な言葉を思い出す。 学校の第二図書室で言葉を交わしたのは、つい昨日のことだ。 『そういえば、君に連絡がつかないって、本堂君が泣きそうだったよ』 「すまん、風呂入っとったんや……」 『まったく。とにかく、君も早く来てくれ。場所はおそらく、前に「イエロー・ テール」が使ってた町外れの倉庫だ』 世良も向かっているところなのだろう。電話ごしに激しい風の音が聞こえるから、 バイクを飛ばしているのだとわかる。 「『イエロー・テール』って、黒猫に潰されたとこやんけ……」 麻薬に手を出しているという噂もあった連中で、『浪花』としてどう粛清しよう かと考えていた矢先に、黒猫に潰されたのだった。 『ああ。いつの間にか過激派が近づいてたみたいだね。相手が族潰しとはいえ、 「浪花」が他のチームと、それもあんな汚い奴らと手を組んでたった一人をリン チしたなんてことになったら……』 これまで、『浪花』という大きなチームが確固たる力を持って君臨していたため に、チーム同士の均衡がかろうじて保たれていた。 今回の過激派の勝手な動きには、その平穏を崩さんとする意図もあるのだろう。 いわば反乱分子だ。 彼らをチーム内で野放しにする危険性は服部も理解していたが、中には服部が総 長の座を継ぐ前からチームにいた古参もいて、なかなか手を出せなかったのだ。 だが今回は、別のチームとも手を組んで黒猫や、あまつさえ黒燕にも手を出そう としていると察知して瑛祐に探らせていたのだ。 『どうする? 「レッドブロッサム」には伝える?』 もっとも、もう伝わっているかもしれないけどね、と世良が小さく呟く。 だが、どれほど彼女たちと仲が良くても、チームの問題に関しては服部の意志を 尊重する。世良の副総長としての責任の表れだ。 「……いや、必要ないやろ。それより、あいつには――」 すると服部の言葉を遮るように、世良が溜息を吐いた。電話の向こうの声が、 呆れたように言う。 『あのなぁ。彼なら、もう知ってるに決まってるじゃないか』 *** 町の外れまで歩かされて、見覚えのある路地に気づく。 ああ、そうか、以前潰したチームの拠点だった廃工場だ、と納得する。大きく穴 の開いた窓は、新一が蹴り割った時の名残だ。 中にはやはりと言うか、それなりの人数が待ち構えていた。 新一を連れてきた者たちの一人が携帯でどこかに連絡しているのはわかっていた から、当然予想していた事態だ。 ざっと視線だけ巡らす。 とりあえず3、40人といったところか。 手にはそれぞれあらゆる武器を持っている。 比べて、新一の手には空き缶が一つ。 新一は無言で手の中のそれを見下ろした。 「また会ったな、黒猫」 彼らの後ろから、男が立ち上がる。 「待ちわびたぜ、てめぇをボコボコにする日をな。あの時はよくもコケにしてく れたな。今日はてめぇに礼を――」 「なぁ」 短い声が、男の怒りに漲る言葉を遮った。 それは平坦で、やる気の欠片も感じられない声だった。 その唐突に発せられた場違いな声に、男はつい、口を閉ざした。 静まり返った工場内に、その少し高めの声が再び響く。 「――さっさと始めようぜ」 フードの下から覗く唇がにやりとつり上げられ、黒猫は手に持っていた空き缶を 落とした。 ――カツン 空き缶がコンクリートの床を打つ軽快な音。 次の瞬間、空き缶はものすごいスピードで空を切り、弾丸のように男の額を直撃 した。 男の身体が揺らぐより先に缶が大きく跳ね返る。硬いスチール缶が凹んでいた。 「……なっ、」 再びカツンと音を響かせて空き缶が地面に落ちたのが先か、誰かが声を発したの が先か。 我に返った男たちが一斉に黒猫に襲いかかる。 「そうこなくちゃな」 向かってくる男たちを前に、新一はそっと舌舐めずりをした。 ひょい、と振り下ろされた金属バットを避け、無防備になった相手の鳩尾に膝を 入れる。そのまま踊るように軸足をくるりと回転させて、背後に迫っていた男を 蹴り飛ばした。 スタミナなら多少自信はある。元帝丹サッカー部のエースは伊達じゃない。 だが大勢を相手にするのなら、できるだけ時間はかけたくなかった。現に今、敵 の数は半減するどころか、さらに仲間が駆けつけてきたのを近づいてくるバイク の音が知らせている。 (あ。雨が降ってきたな……) ぽつりぽつりと薄汚れた窓を濡らし始めた雨粒は、次第に勢いよく降り始めた。 雨漏りして、ぴちゃんぴちゃんと工場の中にも水滴が落ちてくる。 梅雨入りした今の時期にはよくあることなのだろう。ちょうどその位置にアルミ 製のバケツが置いてあった。 それに水が半分も溜まる前に、新一はそれを渾身の力で蹴り上げた。 水の入った重いバケツを顔面で受けた男は後ろに吹っ飛び、その周囲にいた者た ちは盛大に水を被った。 「ナイスシュー」 新一が口笛を吹いて呟くと、ずぶぬれになった男たちがいきり立つ。 「てめぇ……!!」 「何しやがるっ!」 「なめた真似しやがって!!」 激しさを増した攻撃を避けながら、新一は内心どうしたものかと思案していた。 この分だと敵はまだまだ増えそうだ。すでに30人は倒したはずだが、立ってい る人数も減る様子がない。さすがにこれだけの人数を一人で相手するとなると、 無傷とはいかない。 この間の黒燕の喧嘩を思い出す。 あれは美しい戦い方だった。優雅と言ってもいい。 まるで空を翔るかのように舞い、嵐のように激しく敵を薙ぎ倒す。 狭い路地だったから、派手に動くタイプの黒燕は少し戦いにくそうだったが、あ れはむしろ己の得意な喧嘩場所だと新一は思った。 動きと攻撃は最低限に。 そういう意味では、四方八方から十分な間合いを取って敵が向かってこれるこの 広い工場は、大勢を相手にするのに、黒猫にとってあまり好条件とは言えなかっ た。 横から鉄パイプを振り下ろされるのと同時に背後からナイフを突き出されて、新 一は咄嗟に鉄パイプを右腕で往なし、左脚でナイフを蹴り飛ばした。 「――っつ………」 往なしたとはいえ、衝撃を殺し切れずに右腕に痛みが走る。 とりあえず折れていないことだけを確認して、降りかかる更なる攻撃を避ける。 その時、一歩引いて地につけた足が、ざばん、と水しぶきを上げた。 どうやらバケツを蹴飛ばしたせいで、雨漏りしていたところに水たまりができた らしい。知らず足を突っ込んでしまったようだ。 気を取られたのは一瞬だった。 目の前に迫っていた鉄パイプを間一髪で避けるのに、少々無理な体勢で身を捩じ らせた。 その時、水溜まりに突っ込んだままだった足の裏が、ぬるりと嫌な感触を新一に 伝えた。 (あ、やべ) 思った瞬間、身体が後ろに大きく傾いだ。早い話が、滑ったのだ。 かろうじて手をついて、背中から水溜まりに落ちるような事態は免れたが、状況 は最悪だ。 体勢を崩して明らかな隙を見せた黒猫を、敵が悠長に待ってくれるはずもなく。 襲いくるいくつもの鉄の棒に、新一は衝撃を覚悟した。 2013/01/05 |