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「あなたに渡したい物があるの」 「え゛」 夕飯の後に志保に言われて、新一は反射的に眉を顰めた。まずいと思った時には、 志保が目を眇めていた。 「あら、別にいいのよ? 今からでも別の物をプレゼ―――」 「わ、わかったから!」 慌てて宥める。 生徒会長でありながら科学部の部長も兼任している志保は日々何やら怪しい実験 をしていて、不運な帝丹の生徒はたびたび実験の餌食になっているともっぱらの 噂だ。 新一も以前コーヒーに薬を盛られて、一週間何を食べても甘く感じるという苦い (甘い)記憶がある。 「それで、渡したいものって?」 「これよ」 志保が差し出したのは、コーヒー豆のパック。見たところ、至って普通の。 「へ?」 「この間うちで淹れたコーヒーを美味しいって言っていたでしょう? あれは貰 いものだったのだけれど、店をつきとめて買ってきたのよ」 「え……俺のためにわざわざ?」 「他に誰のためだって言うのよ」 思わぬプレゼントに、新一は自然と唇が綻ぶのを感じた。 「サンキュな」 「その代わりと言っては何だけど」 「…………」 やっぱりか、と内心がっくりと肩を落とした。 この隣人が見返りを求めないはずがないのだ。かと言って今更コーヒー豆を突き 返そうものなら、明日まで生きている自信はない。 「次の週末、空けておいてほしいの」 「週末? 別にいいけど、どっか行くのか?」 「ええ、ちょっと」 意味深に微笑んだ志保は、それ以上答える気はないようだった。 彼女がこんなふうに機嫌がいい時は嫌な予感しかしないのだが、まさか断れるは ずもない。 しぶしぶ頷くと、さっさと切り替えて早速コーヒーを楽しもうと決めたのだった。 *** 放課後になるや否や、新一の新しいテリトリーに黒いツバメがやってくるのは、 もうすっかりお決まりのパターンになっていた。 この一週間、ツバメは毎日やってきては、新一が勧める本を嬉々として読んでい た。たまに休憩がてら、本の感想を言い合ったりもする。 この日も黒燕はやってきた。 「よっ」 「おー」 2日目には小さめのドリップ式コーヒーメーカーを持ち込んでいて、ついでにコ ーヒーフレッシュも常備するようになった。カップは相変わらず紙コップ、スプ ーンも1本だけだったが。 「そういえば、お前がここに来てるってこと、『浪花』の連中は知ってんのか?」 「まさか。知ってたら今頃うるさいことになってるよ」 スティックシュガーを2本分ザァッと開けながら、黒燕が言う。 「いいのかよ?」 この状況を知られたら、黒燕が『浪花』を裏切ったと思われるだろう。 だが黒燕は何でもないことのようにひらひら手を振った。 「あー、いーのいーの。俺、フリーの情報屋だし。それに俺今、『浪花』から依 頼取り消されてるしな」 「え」 知らなかった。 世良と顔見知りとはいえ、『浪花』の内部情報を教えてもらうことはないし、転 校してからはほとんど接触していない。 しかし、黒猫を捕まえようと躍起になっている『浪花』が今のタイミングで黒燕 を手放すとは、さすがの新一も予想していなかった。 新一を驚かせたことが嬉しいのか、黒燕はにやにやして言った。 「俺がお前に夢中になりすぎたからかなー」 「ナイフ投げつけたくせに」 「嫌だな、本気なのに」 黒燕は相変わらずにやにやしながら新一のカップからスプーンをさらい、自分の コーヒーをくるくると掻き混ぜた。 「ホントお前、俺のこと好きだよな」 「うん。だからもう、俺のもんになってくんねぇかな?」 黒燕がすっと近寄ってきて、新一の頬に触れる。2人の初めての接触だった。 そのままフードにかけようとした手を、すかさず新一が払いのける。 「ちぇっ」 「ったく、油断も隙もねぇ」 「それはこっちの台詞だって」 しっかりと踏まれた足の痛みをポーカーフェイスで隠して、黒燕は窓際の定位置 まで下がった。 初日のパイプ椅子は、黒燕がどこからか持ち込んだオフィスチェアに取って変わ られている。同じものを職員室で見た気がしたが、新一は気づかないふりをした。 コーヒーを一口啜った黒燕が驚いたような気配を見せた。 「豆替えた?」 「……お前、砂糖入れてるくせによくわかったな」 「わかるよ。美味しいね、これ」 自分がいいと思うものをわかってくれるのは、素直に嬉しい。 一気に機嫌が良くなったのを悟られないように、新一は手元の本に目を落とした。 *** 「あ」 放課後、米花駅前の本屋に寄った新一は、帰りがけに通りかかった小さな雑貨屋 のショーウィンドーに目を留めた。 「…………」 動物のシルエットが描かれたシックなデザインのマグカップが並んでいる。 そういえば、第二図書室にコーヒーメーカーは持ち込んだくせに、カップはまだ 紙コップのままだったことを思い出す。 女の子が好んで入りそうな雑貨屋だが、しばらくの逡巡の後、新一は意を決して 店に足を踏み入れた。 「あ、あの……」 「はい。……!」 声をかけられて振り返った店員は、新一を見るなりほんのりと頬を染めた。 「えっと、あのショーウィンドーに飾られてるマグカップを、ちょっと見せても らいたいんですが……」 「はい! どちらのカップをご所望ですか?」 「……猫と………………鳥、を」 「かしこまりましたっ」 少々お待ちください、と言って店員はショーウィンドーに並べられた数種類のカ ップの中から、2つを持ってきた。 「こちらでございます」 2つとも一応手に取ってみるが、見た目以上に持ちやすく手に馴染んだ。デザイ ンや色も女の子らし過ぎず落ち着いていて品がある。 何より直感で、このカップを気に入っていた。 「じゃあ、両方ともください」 「ありがとうございます!」 店員は奥に在庫を取りに行き、箱を開けて中身を確認すると、レジ脇に置かれて いたラッピングのサンプルを示しながら言った。 「ギフト包装を無料で承っておりますが、いかがなさいますか?」 「あ、いや……」 店員の目がキラキラ輝いているような気がする。完全に彼女へのプレゼントだと 勘違いされているのだろう。 自分のしていることが何だか急激に恥ずかしくなって、頬が熱くなるのを感じた。 「け、結構です……」 「かしこまりました」 会計を済ませて品物を受け取ると、新一は逃げるように店を飛び出した。 マグカップを2つ買っただけで、心臓がドキドキと脈打っている。 とりあえず落ち着こうと深呼吸をしたところで、ふと気がついた。 その感情が、まるで快斗のことを考えている時のものに似ていると。 (まさか、俺、黒燕のことも……) いやいやいや、と慌ててその考えを打ち消す。打ち消さなければ、厄介なことに なるのは目に見えていた。 快斗が好きなのに、黒燕のことも無性に気になる。 いつだったか、黒燕のことを考えていた時に、まるで恋でもしているようだと志 保にからかわれたことがあった。もしかしたら、その時から兆候はあったのかも しれない。自覚がなかっただけで。 (うわ……二股かよ………) これまで、恋愛感情を向けられることはしょっちゅうあっても、自分が誰かにそ んな感情を抱くことは皆無だったため、一度に2人の人間を好きになる感覚に戸 惑いを隠せない。 自分はもしかして惚れっぽかったのかと、衝撃の事実を呑みこめないでいる。 (最低だ……) 快斗と黒燕の顔を思い浮かべる。 それなりに一緒にいると見えてくる、2人の共通点は意外と多い。 自信家なところ。 欲に忠実に見えて、結構理性的なところ。 頭の回転が速いところ。 気障なところ。 喧嘩が強いところ。 口がうまいところ。 謎が多いところ。 2人が同一人物だったらいいのに、と新一は思った。実際、その可能性は高いと 思っている。だが、思ってから、ゆるゆると首を振る。 (本当に同一人物だとしたら……黒羽と敵同士になっちまう) ―――正体なんて、知らない方がいいのかもしれない。 新一は初めて、黒燕とのゲームに躊躇いを覚えた。 2012/12/17 |