(25)
何となく予感がして、その日の放課後、快斗は第二図書室へと向かった。 ちなみに新一は用事があるとかでさっさと帰宅していて、さっき一応下駄箱を確 認してみたら靴はなかった。 先週第二図書室に黒猫が再び現れた日の翌日、それとなく高木に探りを入れてみ ると、鍵はいつの間にか返却されていたそうだ。 一時間あれば合鍵は作れる。そういうことだ。 先週と違い、ゆっくりとした足取りで廊下を歩く。 目的の部屋の前まで来ると、誰にも見られていないことを確認してから、念のた め黒燕のハットを被り、試しにドアに手をかけてみた。 ガラ、とすんなりスライドしたドアに、一瞬呆ける。 「おい」 立ちつくしていた快斗に、ソファに座って本を読んでいた人物が顔も上げずに声 をかけた。 「んなとこ突っ立ってんなよ。誰かに見られたらやべーだろ」 「あ、ああ……」 促されて、とりあえず中に入り戸を閉める。 あまりに予想外な展開に、回転の速いはずの頭はついていけなかった。 ソファで寛いでいる人物は相変わらず顔を上げないままだが、わざわざ黒いパー カーを着てフードをすっぽり被っているから、すぐに黒猫だとわかる。快斗がハ ットを被っているように、黒猫も黒燕が来るのを予想していたのだろう。 「お前何しにきたんだ?」 問われて、言葉に詰まる。 「えーっと……本を、読みに……?」 明らかに嘘だが、読書に夢中な黒猫を見ていたら自然とそんな言葉が出ていた。 すると黒猫は初めて顔を上げた。フードの下から覗く口元が、機嫌良さそうに緩 んでいる。 「ふぅん」 快斗の返事はどうやら正解だったらしい。 黒猫はまたすぐに本に目を落としてしまったが、それは快斗の存在を許している ようにも見えた。 「……俺がいていいの?」 仮にもあんたのテリトリーでしょ、と思わず尋ねると、黒猫が言う。 「確かに俺のもん宣言はしたけど、客を受け付けないとは言ってねー」 とんだ屁理屈だと快斗は思ったが、黒猫の方はそう思っていないようだった。邪 魔さえしなければ、たとえ敵だろうと許すのだろう。 本を読みにきたと言った手前、とりあえず何か読もうと本棚の方へと歩み寄る。 第二図書室の蔵書は古いが高校の書架にしては貴重なものもあり、興味をそそら れそうなものを適当に選んで引き抜いた。 二人掛けのソファを陣取る黒猫の隣のスペースに座るほど親密な仲ではないから、 壁に立てかけてあったパイプ椅子を窓際で開いて座った。 ふと見ると、テーブルに紙コップが一つ。 見回すと、壁際に寄せられた古い机の上に、電気やかんとインスタントコーヒー の瓶、スティックシュガーの束といくつか重なった紙コップが置いてあった。 「それ、好きに飲んでいいぜ」 快斗の視線に気づいたのか、黒猫が声をかける。 「用意する時間なかったし、今日のところはインスタントで悪ぃな」 「おー……」 それはつまり、いずれドリップ式コーヒーメーカーでも持ち込む気だということ だろうか。 快斗は立ち上がって机に近づき、やかんを持ってみる。中身はまだだいぶ残って いるようだ。 インスタントの粉をカップに適当に入れて、湯を注ぐ。スティックシュガーも本 当は5本は入れたいところだが今は1本だけ入れる。 そこで、快斗はどうしようかと視線を巡らせた。 すると、まるで見計らっていたかのようなタイミングで黒猫が言った。 「スプーン、俺が使ったのでよければ」 黒猫のカップに入ったままのスプーンを示されて、快斗は頷いた。 黒猫が自分のコーヒーをすするのを視界の端で捉えつつ、渡されたスプーンでカ ップの中身を混ぜる。 「……ブラック派なんじゃなかったの?」 スプーンを使ったということは砂糖を入れたということだろう。 問うと、黒猫がクスリと笑った。 「さあ、どうだろうな?」 黒燕の訪問を予想していたのなら、カモフラージュかもしれないなと快斗は冷静 に考えた。いかにも黒猫のやりそうなことだ。 以前、敵のテリトリーで出されたものは警戒して口にしないと言った快斗だが、 これなら平気だろうと半ば強引に思いこむ。 油断させて眠らせる――というのはよく考えてみれば黒猫が使いそうな手だが、 カップにもスプーンにも何か塗られていた様子はなかったし、コーヒーの粉にも 何も混ざっていないようだった。唯一確かめようのなかったやかんの湯に関して は、もう賭けでしかないのだが。 「……何で鍵かけてなかったわけ」 言外に危ないだろうと呆れを込めて問いかけると、ページを捲りながら黒猫が平 然と答えた。 「わざわざ鍵開けに行くのめんどくせぇ」 「…………」 快斗は頭を抱えた。 そういう、まるで快斗が来るのを期待していたかのような言い方はやめてほしい。 パイプ椅子に座って脱力していると、手元に視線を感じた。 「……何?」 「何読むんだ?」 表紙を黒猫に向けると、ああ、と納得したように頷いた。 「ヨーロッパの演劇史、な。……あ、そうだ」 黒猫は本を置いて立ち上がると、奥の本棚の間へと消えた。 ソファに置かれた本を見ると、知らない作家の知らないタイトルだったが、どう やら古い推理小説のようだった。 「……あったあった」 戻ってきた黒猫の手には、これまた古そうな、表紙が色褪せてタイトルも碌に読 み取れないような本があった。 「17世紀のイギリスのとある舞台俳優の手記。興味ねぇ?」 「17世紀って、シェイクスピアの時代……?」 「おう。シェイクスピアの舞台に出演したこともあったみたいだぜ」 さして演劇に興味があったわけではないのだが、せっかくの厚意だから受け取る。 しかし、それにしても。 「詳しいね」 「ああ。この間、どんな本があるかは一通りチェックした。それは前に読んだこ とあったしな」 「へぇ」 黒猫はかなりの読書好き、と快斗は脳内メモに書き加えた。 「……なあ」 黒猫が再び本に集中し始める前に、快斗は口を開いた。 黒猫がこちらに視線を寄こすのを感じる。 「自惚れて、いいんだよね?」 「何が?」 「あの夜、アンタの本当の目的は、俺だったって」 黒猫が意味を問うように首を傾げる。 「『浪花』のアジトに乗り込んできた時……アンタが会いにきたのは服部じゃな くて黒燕の方で、宣戦布告した相手も俺だった、って」 黒猫は黙っていた。 フードがつくる影が邪魔で目は見えないが、視線ははっきりと感じることができ た。唇は緩く結ばれており、それは微笑んでいるようにも嘲笑しているようにも 見えた。 「……こっちこそ、自惚れていいんだよな?」 「え?」 黒猫の薄く開いた唇から、静かな問いかけを返された。 「お前が興味あんのは“『浪花』が追ってる族潰し”じゃなくて、俺個人だって」 それは珍しく揶揄を含まない、真剣な声色だった。 快斗は呆けた顔を何とかポーカーフェイスの裏に隠して、にやりと笑ってみせる。 「それはもちろん」 「じゃあ余所見してんなよ」 「余所見?」 「関係ねぇ奴にちょっかいかけてんなっての」 最近黒燕が罠をしかけたり服部が接触した工藤新一のことだろうと気づく。 「関係ない、ねぇ」 口の中だけで呟く。それが本当なら、快斗の理性を乱すこの感情は、かなり厄介 なことになっているのだが。 工藤新一にドキドキしている自分がいる。 そして同時に、目の前で挑発的に妖艶な笑みを浮かべている黒猫のすべてを奪い たいという衝動がある。 「覚悟しとけよ」 快斗が呟くと、黒猫が楽しげな笑みを浮かべた。 「そっちこそ」 *** 「参ったな、こうも堂々と密会されるとは」 第二図書室から中庭を挟んで向かいの校舎。コの字型の校舎のちょうど反対側に ある生徒会室で一人仕事をしていた白馬は、窓から見えた影に溜息を吐いた。 第二図書室のカーテンは閉まっているが、隙間からちらりと見えた黒いハットと その下から覗く奔放な髪を見れば、誰がいるのかはすぐにわかった。 あそこは今、生徒は立ち入り禁止なんだけどね、とぼやきつつ、彼らの遊びを邪 魔する気にはなれないのだから、自分も大概あの友人には甘いと苦笑する。 でも、この情報を一人でしまい込んでおくのももったいない。 ポケットから携帯を取り出して、アドレス帳を開く。 この情報を共有したら楽しそうな友人は何人かいるが、こういうのはタイミング も大切だ。 「そうだね、まずは……」 白馬は楽しげな微笑みを浮かべ、ボタンを押した。 「―――もしもし、白馬です。……ええ、久しぶりにお茶でもいかがかと思いま して。……ええ、それで、実はぜひお会いしたい人がいるのですが。……それは もちろん。迎えを寄こしましょう」 そういえば、快斗は黒燕の時と素の時とで口調ちょっと変わります。 というか明るい室内で帽子とフードだけで顔を隠すのは明らかに無理だと思 われ…… 2012/12/14 |