(22)
服部が家の庭で早朝の鍛錬を終えて屋内に戻ろうとすると、いつからいたのか、 庭の樹に凭れかかっている男がいた。 「よぉ。ちょっと面貸せよ」 「…………」 どこぞのチンピラのような物言いをし、背を向けてさっさと歩き始めた幼馴染 に、服部は竹刀を置いて、何も言わずにあとをついていった。 無言で歩き続け、2人は近所の公園に辿りついた。 人気はなく、しんと静まりかえっていた。公園の時計は午前6時半を示してい る。 「こないなところでええんか?」 早朝とはいえ、誰に見られるかもわからないところで。朝一でわざわざ家まで 訪ねてくるほどの用事だろうに。 「いいんだよ」 短く答えた快斗は無表情だった。これは相当怒っている証拠だ。普段ポーカー フェイスで簡単に感情を隠してしまう快斗が、ここまで怒っているのはあまり 見たことがない。 空気がひんやりと感じられるのは、乾いてきた汗だけによるものではないだろ う。 「どういうつもりだ」 「何のことや?」 「とぼけんじゃねぇよ。お前、工藤新一に接触しただろ」 ギロリと睨まれて、その眼光の鋭さに服部は一瞬怯んだ。それは幾度か見たこ とのある目だったが、自分に向けられたのは初めてだ。 「……どういうつもりも何も。調べとんのや。黒羽がくれた黒猫容疑者リスト に載っとったし」 「俺を足止めして?」 「…………」 「おかしいと思ったんだ。昨日、家を出てからやたらトラブルに巻き込まれて。 女の子にしつこくつき纏われるわ、目の前でおばさんが転んで立てなくなるわ、 交差点で女の子が貧血で倒れるわ、やたら不良に絡まれるわ、ぶつかられて深 い水溜まりにはまるわ……」 「……水溜まりは俺関係ないで」 「ああ゛?」 「いや、何でもないわ」 思わずぼそりとツッコミを入れた服部に、快斗はまるっきりチンピラのように 凄んでくる。 だが、ほかのトラブルには確かに心当たりがあるため、服部は気まずげに視線 を逸らした。 黒燕相手に気づかれないとは思っていなかったが、正直これほど怒るとは思っ ていなかった。 「黒猫の件は俺に任せるんじゃなかったのかよ。それとも、俺の腕が信用でき ねぇってか?」 「お前の腕を信用してへんわけやないで。ただ……」 「何だよ」 口ごもった服部を快斗は促す。そして意を決したように口を開いた服部に、快 斗は嫌な予感が全身を駆け巡るのを感じた。 「……今のお前の情報は、信用でけへん」 「っ、」 「私情を挟むなんてお前らしないで」 「なっ……本堂か……!」 「あいつはお前に協力してても『浪花』の諜報部隊長なんやで」 黒燕が必ずしも『浪花』の味方ではないように、『浪花』もいつも黒燕の味方 とは限らない。 「てめぇ、本堂に俺を探らせてたな」 「少しお前の様子を見てもろただけや。けど、本堂が言わんでも最近のお前は 明らかにおかしいで。殊に、工藤新一が関わると」 「……そんなことねぇよ」 「自覚あんのやろ? 黒羽、工藤や黒猫について、何か隠してることがあるん とちゃうか?」 「…………」 咄嗟に、ない、という言葉は出てこなかった。 すぐさま快斗の脳裏に浮かんだのは、『レッドブロッサム』の姫たちと親しげ だった黒猫の映像。第二図書室でドア越しに話した黒猫の艶のある声。そして 昨日ゲームセンターで見た綺麗なフォームの回し蹴り。 快斗はかつて宙づりのまま放っておいた疑問を自分に問いかける。 もし新一が黒猫だったとして、自分はどうするのだろうか。黒猫の正体を、服 部に告げることができるのだろうか。 同時に思い出されるのは、大きなぬいぐるみを抱えて不機嫌そうに、だが少し だけ嬉しそうに快斗を見た綺麗な空色の瞳。 快斗は自分でも気づかぬうちに、苦しそうに顔を歪めていた。 それを見ながら、服部は心の中で溜息を吐く。 長い付き合いだからわかるのだ。この幼馴染が誰かしらに恋心を抱いているの だということが。それは、快斗がいつも言うところの勘のようなものだ。 こんな苦しそうな顔をされて尚、調査を続けろなどと言えるはずもない。自分 はチームの総長で、彼は情報屋だが、それ以前にこの幼馴染が大切なのだ。 立場上、自分が調査を止めることはできない。一部とはいえ『浪花』に手を出 した黒猫を見すごすことはできないのだ。 だがこの幼馴染は違う。 黒燕はフリーの情報屋だ。『浪花』の依頼が彼を苦しませるのなら、止めてし まえばいいと思う。黒猫の正体を知るのを躊躇うのなら、工藤新一を調査対象 として見ることに罪悪感を覚えるのなら、いっそすべて止めてしまえと服部は 思った。 だから、服部は静かに言った。 「黒羽。しばらく、お前への依頼はなしや」 「っ……」 快斗は目を見開いた。『浪花』が黒燕の協力を拒むのは初めてのことだった。 「黒猫は俺に宣戦布告したんだぜ? 『浪花』じゃねぇ」 「そんなん関係あらへん。黒猫は『浪花』に手を出した。それだけや」 「……俺がいなくてどうやって捕まえる気だ? 世良はこの件に関しては動か ねーだろ」 「現諜報部隊長は本堂や。それに他のメンバーもおる。何とかなるから心配す んなや」 その声に微かな労りを感じ取って、快斗は息を呑んだ。 ぶっきらぼうに言った服部は悟らせるつもりはなかったのだろうが、つき合い の長い快斗にはわかった。気遣われたのだと。 (まったく……嫌になるくらい人の良い男だよ……) この状況で、黒猫に一番肉迫している黒燕を手放そうとするなんて。 それならと、快斗は呆れたふうを装って言った。 「わかった。俺は俺で好きにやらせてもらう。けど――」 挑戦的に、にやりと笑って見せる。 「今後工藤に手ぇ出してみろ。十倍にして返してやるぜ」 「望むところや」 同じようににやりと笑い返した服部に、快斗は心の中だけで感謝の言葉を呟い た。 *** 「工藤君、ちょっと本を借りたいのだけれど」 「おー。好きに持ってっていいぞー」 勝手知ったる他人の家。 志保は一応インターホンを鳴らしてから、いつものように合鍵を使って工藤邸 に上がり込み、声をかけた。 「あ、オメーもコーヒー飲むか? 今ちょうど淹れるとこなんだ」 キッチンにいたところを見るに、本当にちょうど淹れるところなのだろう。 「そうね。いただこうかしら」 カップをもう一つ取り出す新一を視界の隅に捉えつつ、志保は書斎へ向かった。 父親が推理小説家ということもあってか、工藤邸の蔵書数は小さな図書館ほど もあった。それも、幅広い分野に渡っていて、中にはかなりマニアックなもの もある。工藤優作氏の興味の幅は謎だと、志保は常々思っていた。 その中には、薬学の分野に関する貴重な書物もあり、志保の目当ては大抵それ だった。 今回もこれまで読み進めてきた専門書のシリーズの、次の巻を借りにきたのだ ったが。 「……あら?」 前に来た時はあったはずのその巻がない。 きっちりと棚に並べられた本の列には、一冊分のスペースが開いていた。 「工藤君が持っていったのかしら」 新一が普段読むのはもっぱら推理小説ばかりだが、トリックを解明するために 時々専門書を読んでいるのは知っていた。 書斎の片隅に置いてあるデスクの上を見るも、目的の本は置いていない。 と、いうことは。 「……工藤君の部屋、かしらね」 志保は書斎を出ると、真っ直ぐに新一の部屋へと足を向けた。 気心知れた仲とは言えさすがに他人の、それも異性の寝室に勝手に入るのは躊 躇わないでもないが、新一に言って取ってきてもらう、という選択肢は志保の 中であっさり切り捨てられた。 本を取ってくるついでに、一人暮らしの新一が自室をきちんと片づけているか チェックしてやろうという気持ちもあったのだ。これで埃だらけだったりした ら、どんな罰を与えてやろうかと考えて志保の口元に薄っすらと笑みが浮かん だ。 新一の部屋の前に辿りつくと、躊躇いなくドアを開ける。 だが、開けた瞬間目に入ったものに、志保はその場で固まった。 その時、新一が志保を探して二階に上がってきた。 「宮野? コーヒー入ったけど―――ってうわあぁぁ!!」 自分の部屋の前で立ち尽くす志保に、新一は慌てて駆け寄ってドアを閉めた。 「なっ、何やってんだよ俺の部屋で!」 「……目当ての本を探しに来たのだけれど。何か見られては困るものでもある のかしら?」 「い、いや、そんなことは……」 「それにしても」 らしくなく動揺を隠せない新一に、志保は僅かに唇の端を上げて面白そうに言 った。 「まさかあなたに、ぬいぐるみを愛でる趣味があったとはね」 「っ?! ち、ちがっ、あれはっ、」 「枕元に置くなんて、よほど大切にしてるのね。夜は抱きしめて寝ているの?」 「〜〜〜〜っ」 「あら、否定しないのね」 真っ赤になった新一に、志保は噴き出したくなるのを堪えた。夜の街を物騒な 噂で騒がせている張本人が、まさかぬいぐるみを抱きしめて寝ているとは。 だが頬を染める赤に、単なる羞恥以外のものも感じ取る。 「あれ、誰にもらったの?」 「えっ」 新一があからさまにぎくっとして目を逸らす。 「そんなに言いにくい相手なの?」 「いや……学校の、友達」 「ふぅん?」 「な、何だよ」 満更でもなさそうなその様子に、志保はもう少し畳みかけてみる。 「その人のこと、好きなの?」 他人から向けられる熱い視線や想いには存外鋭いが、自分の恋心には鈍い新一 のことだ。誰かを好きになってもそう簡単に認めはしないだろうと予想してい た志保は、しかし、予想外の反応に驚くことになる。 「……かも、しんね」 「あら、ずいぶん素直なのね」 無意識の照れ隠しで力いっぱい否定するかと思っていた新一は、俯いてぽつり と呟いたのだった。 「俺だってそんなに鈍くねーっての」 これでもまるまる一晩考えたのだ。 快斗と触れ合った背中の感触が今でも残っていて、思い出すたびドキドキする 理由。 快斗に危険が迫った時、自分の立場を忘れて無意識に身体が動いていた理由。 快斗の笑顔に、心が温かくなって安らいだ理由。 そして、快斗の目を見ると、ずっと見ていたくなる理由。 気づかないわけにはいかなかった。 自分が、快斗に恋をしているのかもしれないと。 だんだん甘くなってきたような。 UFOキャッチャーのぬいぐるみネタは王道だと思います。 2012/12/04 |