(19)



















「失礼しまーす」
「あ、黒羽君。どうしたんだい?」

職員室のドアをガラリと開けると、近くにいた教師が声をかけてきた。

「今日日直だったんで。美和子先生いる?」
「あー、佐藤先生なら今しがた部活に顔を出すって言って出てったよ。日
誌なら、僕が預かっておこうか?」
「ふぅん、そこまでして美和子先生と接点ほしいんだ、高木せ・ん・せ」
「なっ、ち、違うよ! 別にそんな下心なんて……!」
「ま、いいけど。じゃあお願いします」
「もう……」

深いため息を吐いた若い教師は快斗もなかなか気に入っていて、一応秘密
にしているらしい高木の恋心をこれでも応援していたりするのだ。

「あ、そういえば高木先生、噂で聞いたんだけど……」

歳のわりに純真な高木を微笑ましげに思いつつ、快斗は少し声を潜めた。

「? 何だい?」
「先々週、演劇部の備品が盗まれたって友達から聞いたんだけど、本当?」
「ああ……でも報告の後確認したら鍵はちゃんと職員室にあったし、こじ
開けられた様子もなかったから、鍵は部員がかけ忘れただけじゃないかっ
て先生たちは思ってるみたいだよ。盗まれたって言っても、なくなったの
は小道具がいくつかだけだから、それも部員がどこかに置き忘れたんじゃ
ないかって」
「へぇ」

ということは、あらかじめ合鍵を作っていたのでもない限り、部員が放課
後部室に鍵をかけて職員室に鍵を届けた後、翌朝部員が再び部室を開ける
までの短い間に『黒猫』は職員室にやってきた鍵を盗っていったというこ
とだ。

1週間前の襲撃の時、服部が駆け付けた時には内側から鍵がかけられてい
た。ここの学校の鍵は少し特殊で、内側から鍵をかけるにも鍵が必要なタ
イプだ。

つまり、『黒猫』は第二図書室の鍵も、職員室から盗ったということにな
る。もっとも、服部が鍵を扉ごと壊してしまったので、今は新しい鍵につ
け替えられているはずだが。

「ねえ高木先生、ついでにもう一つ、頼み事聞いてくれません?」
「何だい?」
「第二図書室の鍵、貸してほしいんだけど」
「えっ」

高木が戸惑うのがわかった。
それもそのはず、襲撃事件の前までは『浪花』の連中が入り浸ることを黙
認して鍵を開けっぱなしにしていた第二図書室は、今回の騒動が原因で暫
く生徒の使用を禁じられているのだ。今も部屋には鍵がかかっているはず
である。

「いや、さすがにそれはちょっと……」
「大丈夫、すぐ返すから。実はいつもあの部屋使ってた奴らの1人が、あ
そこに大事なノート忘れたらしくって。先生と仲良い俺が取ってくんの頼
まれたんです」
「でも、ドアの工事の前に部屋は掃除したけど、そんなものどこにも……」
「隠してあんだってさ。ね、貸してくれたら、美和子先生の行きつけのラ
ーメン屋さん教えてあげるから」
「え、本当かい? というか何で黒羽君がそんなこと知って……」
「この間偶然店で会ったんだー。その時色々話したから、他にも結構知っ
てるんだけどなー」

もちろん、佐藤に店で会ったのは偶然ではないのだが。

「わ、わかったよ……でもこのことは秘密にしておいてくれよ?」
「もっちろん!」

鍵の入った箱を、高木が持ってくる。もうすでに部活が始まっている時間
だからか、中身はだいぶ減っているようだった。

「えーっと、第二図書室の鍵は……あれ?」

おかしいな、と首を傾げた高木の肩越しに箱の中を覗きこんで、快斗は目
をすっと細めた。

「どこ行ったのかな……生徒には今は貸し出しできないはずだし……もし
かして誰か先生が借りてったのかな?」
「……高木先生」

高木が振り返ると、快斗はにっこりと愛想の良い笑顔を浮かべていた。

「やっぱ今日はいいです。また出直すよ」
「え、そうかい?」
「はい。どうもありがとうございました。あ、そうだ、美和子先生は週に
一回は必ず米花町の『ラーメンさくら』に行ってるみたいだよ。それじゃ
あ失礼しまーす」
「えっ、あ、ありがとう!」

高木の声を背に、職員室を出る。

数歩ゆっくりと歩いて、そして次の瞬間、猛ダッシュした。

「くそっ、やられたっ……!」

閑散とした廊下を猛スピードで走り抜ける。目指すは第二図書室だ。



               ***



襲撃後初めて踏み入った第二図書室は、新しくドアを取りつけた際に掃除
もしたのか、だいぶ綺麗になっていた。散乱していた不良どもの私物も片
付けられ、今や本棚と、それから空いたスペースに二人掛けのソファとテ
ーブルが一つずつあるだけだ。

ソファは古いものの座り心地は意外とよくて、新一は寝転がりながら、今
度クッションでも持ち込もうと思った。

新一が第二図書室を襲撃した理由は至って簡単だ。
本を読まない連中が図書室を占拠するのは気に食わなかったことと、寛ぎ
ながら本を読めるスペースがほしかったのだ。

普段生徒が使う第一図書室に行くと、新一の読書姿にひそひそと騒ぐ女子
生徒がいて落ち着かない。

ここには意外と良い本も揃っているようで、新一の知識欲を掻き立てるの
には十分だった。

今度コーヒーメーカーも持ち込もうかななんて思いつつ、今は自販機の缶
コーヒーを啜っていると、不意に首の後ろあたりがざわりとして、新一は
ページを捲る手を止めた。


(………来る)

意外に気づかれるのが早かった。どうやら黒燕を甘く見ていたようだ。

新一はゆっくりと身体を起こし、立ち上がると、静かにドアに近づいた。
向こうも足音はしっかりと殺しているようだが、だんだんと近づいてくる
独特の気配がだだ漏れだ。それだけ感情を掻き乱されているのだろう。そ
して掻き乱したのが自分だと思うと、思わず笑いが漏れそうになって口を
押さえた。

相手がドアの前に辿り着いたのを感じて、新一はドアに背を預けた。
鍵はこちら側にあるから開けられることはない。力任せの服部じゃあるま
いし、力ずくで開けるなんて無粋な真似はしないだろう、この男は。

しばらく、沈黙が続いた。
黒燕は、動く気配がない。きっと黒燕も気づいているのだろう、黒猫が今
この瞬間、ドア一枚隔てたすぐ反対側に立っていることに。

永遠に続きそうな沈黙に、新一は焦れた。

このすぐ向こうに、黒燕がいる。きっと30cmも離れていない。
どんな顔をしているのだろう。どんな手をしているのだろう。……どんな
目を、しているのだろう。

目を瞑って想像してみる。

早く、間近で見たくてしかたない。


無意識に、手が鍵へと伸びた。



                ***



第二図書室に辿りついたはいいものの、どうしていいのかわからなくて、
快斗は戸惑った。

このドアには鍵がかかっているだろう。服部ならまだしも、まさか一般生
徒の黒羽快斗が、校内のドアを、それも新しくつけたばかりのドアを壊す
わけにはいかない。

それに、そんな無粋な真似をして黒猫に軽蔑されたらと思うと、そんなこ
とできるはずもない。

(俺、怖いのか……?)

それは覚えのある感覚だった。
最近、工藤新一を疑うのを躊躇った時の感覚に似ている。

だがやはり、黒猫の正体を暴きたい。顔が見たい。目を見て、新一と同じ
青色をしているのか、それともまったく別の誰かなのか、はっきりさせた
い。

手を伸ばして、ドアに触れる。

黒猫の気配は希薄だが、快斗にはわかった。このドアのすぐ向こうに、黒
猫が立っている。
思えば、ここまで近づいたのは初めてだ。たとえドア一枚に隔たれていよ
うとも、傍に感じる黒猫の気配に快斗はぞくぞくした。

きっと何か言えば、黒猫には聞こえるだろう。だが、何を言えばいいのか
わからなくて、快斗は一旦は開けた口を閉じた。


と、その時、カチリと音がした。

「っ?!」

それは間違いなく、鍵が開けられた音だった。

黒猫の気配がドアから離れる様子はない。今ドアを開ければ、顔を見れる
だろう。それはつまり、こちらも見られるということなのだが。

ゲームは終わり。そういうことだろうか。

ドアに触れていた快斗の手はゆっくりと降り、取っ手に指をかける。


………が。

「……もう降参なの、キティ?」
「……誰が子猫だって?」

取っ手にかけた指をあっさりと離して、快斗はからかうように言った。す
かさず、不機嫌そうな声が返ってくる。どうやら声の聞こえ方からして、
黒猫はドアに背を向けているようだった。

クスクス笑って、快斗も後ろを向き、ドアにもたれかかる。その振動は、
おそらく向こうの背にも伝わっているはずだ。

「まったく、やられたよ」
「そろそろ俺の番かと思って」
「2人とも黒じゃゲームにならないじゃん」
「じゃあ羽を白くするこったな」
「白猫も可愛いと思うけどね。先手はアンタだったし?」
「誰もチェスとは言ってねーよ」
「じゃあ囲碁? 渋いねぇ」
「オセロかもしんねーよ?」
「ああ、それいいね。相手を自分の色で染める感じ」
「変態」
「そっちこそ。知らない男に鍵開けたりして。もしかして誘ってる?」

テンポのいい応酬に、間ができる。
ちょっとからかいすぎたかなと快斗が反省して口を開こうとすると、初め
て、背後の気配が動いた。
えっ、と驚いた快斗の耳に、低い、妖艶な響きの声が届いた。

「……だとしたら、どうする?」

快斗が目を見開いて固まった一瞬の隙に、扉の向こうの気配が消える。
ハッとして振り返りドアを開け放つが、部屋はすでにもぬけのからだった。
今回もまた、窓が一つ開いている。

「……何だよあれ」

顔に熱が集まるのがわかる。
悔しいやら恥ずかしいやらドキドキするやらで、快斗はその場に蹲って頭
を抱えた。








   















補足:内側から鍵をかけるのに鍵本体が必要なタイプはドイツでは一般的
だそうですが、なぜ江古田高校でそんな特殊なものが取りつけられている
かというのは長くて複雑な事情ということで割愛(汗
あまり深く考えないでください…。

チェスは白が先手、囲碁とオセロは黒が先手。





2012/11/25