午後3時のお喋り






薄暗い地下の研究室でコンピューターと睨めっこしていると、小さくチャイム
の音が聞こえた。研究の邪魔にならないようにある程度の防音設備が整ってい
るが、この広い家の中で来客に気づかないのは流石にまずいため、博士がチャ
イムの音を大きめに設定しているのだ。

モニターの隅の時計を見ると、午後3時を回った頃だった。博士が先刻旧友と
お茶をしに出かけてから、さほど時間は経っていない。久しぶりの再会だと言
っていたから、きっと帰宅までまだ時間がある。

そんなことを考えながらインターホンを確認すると、そこには知った顔があっ
た。

「待って、今行くわ」

モニターに映った相手の表情からして緊急ではないようだし、待たせても別段
問題のない相手だ。哀は慌てることなく玄関へ向かった。


「哀ちゃん。こんにちは」
「こんにちは。どうしたの?」

扉を開けると、そこには最近隣家に住みついた青年が笑顔で立っていた。

「良かったら、一緒におやつ食べない?」

言うや否や、さっと鮮やかな色のシルクのスカーフが視界を横切り、次の瞬間
には、手ぶらだったはずの青年の手にバスケットが現れた。それとともに香ば
しい匂いが漂ってくる。
毎度のことながら、本物の魔法のようだ。

「そうね、せっかくだからいただこうかしら。あがって」

哀は一度地下の研究室に戻ると、しばらく放置しても大丈夫なように手早く実
験器具をまとめた。データもしっかりと保存して、一旦コンピューターを落と
す。

一階に戻ると、青年が少し申し訳なさそうに笑った。

「ごめんね、実験の途中だったかな」
「いいのよ、急ぎでもないから」

棚から皿とフォークを2セットずつ取り出していると、青年が「俺が紅茶淹れる
ね」と断ってティーセットの準備をし始めた。
彼がこうして阿笠邸でおやつを食べるのは初めてではないので、哀も任せる。

「今日はね、マドレーヌを焼いてみたんだ」
「美味しそうね」

バスケットの中には、ムラのない黄色に焼き上がったマドレーヌが並んでいる。

「工藤君はどうしたの?」

大体答えは予想できていたが、一応聞いてやる。元々これだって、あの探偵の
ためにつくったものだろうに。単なるお裾分けでなく、一緒に食べようと誘う
あたり、探偵は家にいないのだろう。

「事件だって、さっき出てっちゃったよ」
「そう。……いただくわね」

青年が取り分けてくれたマドレーヌを、一口齧る。文句なしの美味しさだが、
甘さがかなり控えめなことから、それが本来あの探偵のためだけにつくられた
ものであることがわかる。

(何だかのろけられている気分だわ……)

哀の口にも合うほど甘さ控えめなはずなのに、何だか必要以上に甘く感じて、
哀は小さくため息を吐いた。

「ところで黒羽君」
「何?」
「あなた、工藤君に対して不満はないの?」
「不満?」

青年がきょとんとする。
こういう表情は、実はちょっと、探偵が不意に見せる子供っぽい表情に似てい
ると哀は思っている。

「だって、デートだって事件を理由にすっぽかされたり、今日だってこのマド
レーヌ、工藤君と一緒に食べる予定だったんでしょう? 不満の一つや二つ、
あるでしょう」

哀がかねてから思っていたことを言うと、件の探偵の恋人は苦笑した。

「そりゃあね。不満だらけだよ」

そうして考えるように視線を巡らすと、指折り不満を挙げていく。

「まず、自分のことを顧みずに危険に飛び込むこと。怪我しても自分から言わ
ないこと。殺気には敏感なくせに、周りの熱い視線に鈍感なところでしょ、そ
れから白馬に会うと俺のことそっちのけでホームズの話で盛り上がるところと、
放っておくと食事とか睡眠忘れるところ、あと……時々俺の実家に行って母さ
んと仲良くアレ食ったり、とか……」

「へぇ、そうなの」

「まだまだあるよ。マジックのタネ見破ろうとして何度も同じマジックやらさ
れたり、メールの返事がそっけなかったり、あと何故か紅子、って俺のクラス
メイトなんだけど、と仲が良かったり」

「へぇ……」

「あ、あとね、この間制服のままソファで寝てさー。まあ俺がベッドに運んで
着替えさせたんだけど。暑いからって部屋の窓あけっぱなしで寝てた時もあっ
たんだぜ。探偵のくせに危機管理が甘いよなぁ。あと、傘は使ったら玄関かベ
ランダに開いて干しとけって言ったのに。そのままにしとくと錆びちゃうでしょ。
それから、ダイニングテーブルの上に事件の捜査資料放っておくなって言った
のに……」

留まるところを知らずに次々と出てくる愚痴に、哀は呆れて半眼になった。

「何だか夫婦みたいね」

そう言うと、青年は尖らせていた唇を引っ込め、それまでの子供っぽい表情が
嘘のように、やわらかい笑みを浮かべた。

「そりゃあね」

相手に恋してるだけのただの恋人とは違うよ、と青年は言った。
一緒に暮らしていると、相手のいいところも悪いところも、すべて見えてくる。
不満なんて、数えきれないほどある。

「それでも、好きなんだよね」

そう言って照れくさそうに笑った彼の纏う空気は、「好き」なんて言葉じゃと
ても収まりきらないほどの愛しさに溢れていた。

恋人への不満を聞きだそうとしたはずが、うっかりのろけを聞いてしまった気
分になって、哀はコクリと紅茶を飲みこんだ。
















再掲:2012/12/09