「工藤君。これが解毒剤よ」

カーテンが閉められ、電気も消された暗い部屋には、息がつまりそうな緊張感に
満ちていた。









ついに組織の大元を潰したのは一ヶ月前のことだ。
FBIとCIA、さらに各国の警察組織を巻き込んでの大捕り物。武器を持って応戦し
てくる敵にさすがにこちらも無傷とはいかず、数人の死者と、多くの怪我人を出
してしまったが、その中でもコナンたちは秘密裏にアポトキシンの研究データを
盗み出すことに成功した。
そして哀は寝る間も惜しんで研究を重ね、たった一ヶ月の間に解毒剤の完成品を
つくりだしてみせた。

その一ヶ月の間にコナンはというと、転校の手続きやら偽造した公的文書の整理
など、それなりに忙しくしていた。
一番大変だったのは、コナンが遅かれ早かれ転校することを知って駄々を捏ねた
少年探偵団を宥めることだった。連日遊びに連れ出され、しかも研究のため哀が
不在だった分、一人で相手をしなくてはならなかった。

解毒剤の完成の目処が立ったと哀から告げられた日の夜、コナンは一人探偵事務
所を抜け出した。
歩き慣れた道をゆったりとした足取りで進みながら、大阪の友人に電話をかける。

「……ああ、もうすぐらしい。……はは、まあお前にも世話になったからな。元
に戻ったらそっちに行く。……そう、服部本部長に挨拶しなきゃなんねーから。
本部長に伝えといてもらえると助かる。……ああ。サンキュな」

組織戦では服部平次本人にももちろんだが、彼の父服部平蔵にも手を貸してもら
った。日本の警察組織を巻き込んだ上、いいように利用させてもらったのだから、
工藤新一に戻ったらとりあえず挨拶回りで忙しくなりそうだと溜息を吐いた。

ふと気づくと、工藤邸の前まできていた。
どこかに向かっていたわけではないのだが、無意識とは恐ろしい。

隣の阿笠邸からは微かに灯りが漏れている。
それを横目に、コナンは自宅の門をくぐった。


しんと静まり返った室内は、ここしばらく誰も住んでいなかったからか、単に人
気がない以上に冷たい空気が溜まっている気がした。
自然と息を殺して、コナンはそっと室内へ足を踏み入れた。
電気はつけない。

リビングのソファに腰を下ろす。どっかりと座ったつもりが、小さな身体ではほ
とんど沈み込まなかった。

夜風にカーテンがなびき、揺れるカーテンの隙間から青白い月が見え――。

なび、く――?


コナンはハッとして窓を見た。
閉まっていたはずのガラス戸が開け放たれ、ふわりと浮いたカーテンから見える
人影――。

一気に高められた警戒心は、そのシルエットを見た瞬間あっけなく霧散した。

「な、んだ。オメーか……」
「ごきげんよう、名探偵」
「いきなり現れんじゃねーよ。心臓に悪い……」

白い怪盗は室内に入ってくると、ガラス戸を閉めた。律儀にもきちんと靴を脱い
でいる。

「何の用だ?」

キッドは窓際に立ったまま、それ以上近寄ってこようとしない。

「……もうすぐ戻るって聞いた」
「ああ……解毒剤がもう少しでできるそうだ」

どこでそんな情報を、なんてことは今さら聞かない。

「危険はないのか?」
「組織か? それとも薬か?」
「両方」
「組織の方はたぶん大丈夫だ。残党の始末とか、あとはFBIが何とかしてくれるだ
ろ。薬の方は、俺は灰原を信じてる」
「そうか……やっと、工藤新一が戻ってくるんだな」
「オメ―とははじめましてになるんだな」

コナンがふっと笑みをこぼすと、キッドは少し緊張した面持ちで言った。

「お前が戻ったら……その……」
「何だよ」
「会いに来ても、いいか」
「え?」
「怪盗と探偵としてじゃなくて、えっと」

言い淀むキッドに、コナンは微笑を浮かべて、やんわり遮った。

「俺の中ではオメーって、何つーか、微妙なんだよなー」
「微妙、か」
「だって敵じゃねーだろ? かと言って友達っつーのとも違うしな。今までは好
敵手ってことにしてたけど、それだけじゃねーんだよな」
「え……」
「オメ―のこと本気で捕まえようと思ったこともあったし、でも本気で命預けた
こともあった。そんな奴って、俺にとってはオメ―だけなんだよ。だから、何つー
か、特別、なんだよな。うん」
「特、別……」

キッドに反芻されて、コナンは自分で言ったことながら恥ずかしくなった。

「だ、だからさ。オメ―が誰だろうと、俺とオメ―は、その、特別な仲なんだよ!
わかったかっ?」
「う、うん」

いかんせん暗くて表情は見えなかったが、気配でキッドが笑ったような気がした。

「それじゃあ名探偵。真実の姿のお前に会えることを楽しみに待ってるぜ」

その途端、いつの間にか開いていた窓から吹き込んできた風にカーテンがひとき
わ大きく翻り、怪盗の姿を覆ったかと思うと、次の瞬間にはすでに姿を消してい
た。

「ったく、普通に帰れっつの……」

呆れたような口調とは裏腹に、コナンは頬が自然と緩むのを感じた。





そしてその一週間後。
朝に解毒剤が完成した旨を告げられ、コナンはその日のうちに、前もって準備し
ていたシナリオ通り毛利家に別れを告げた。



「これが……」
「解毒剤よ。あなたのデータと詳細に照らし合わせて、あなた専用につくったも
のよ。それでも成功率は70%だけど」
「十分だ。俺の悪運の強さは知ってるだろ」
「ええ。あなたの服は隣の部屋に用意してあるわ」
「ああ。サンキュ」

カプセルと水のコップを受け取ると、早速隣の部屋へ向かったが、戸口のところ
で哀を振り返った。

「灰原」
「何?」
「お前は……どうするんだ」

この解毒剤はコナン専用だ。哀のものは、また別につくりなおさなければならな
いのだろう。宮野志保に、戻るのだとしたら。

哀は、彼女にしては珍しい、純粋な微笑みを浮かべた。

「私は、戻らないわ」

宮野志保としての人生は、あの時アポトキシンを飲んだ時に終わったのだ。
もちろん、シェリーとして組織で薬をつくり、結果たくさんの人を傷つけてしまっ
たことを忘れるつもりはない。宮野明美という姉がいたことも、彼女を死なせて
しまった痛みも自分の一部だ。

けれど、たとえ偽りの姿でも、灰原哀として得たものがありすぎた。
安心して眠れる場所、無邪気に笑いあえる友人、自分を守ってくれた人、何でも
ないことで幸せを感じられる平和な日常。

このあたたかい幸福を受け入れていいのかと、自問したことがある。
いいのだと、教えてくれた人たちがいる。
いいのだと、そう思えるようになった自分を誇りに思いたい。


「そうか」

コナンも同じように笑みを浮かべると、今度こそ部屋の中へ消えた。


「……ありがとう」

閉められたドアに向かって、小さく呟く。
きっとこの声は届いていないだろうけれど、この気持ちは届いているはずだ。



















再掲:2012/10/02