「フランス?」 夕食後にコーヒーを飲みながらリビングで寛いでいると、神妙な面持ちで隣の アームチェアに腰掛けた快斗が、「フランスに行くことになった」と静かな声 で告げた。 咄嗟に聞き返したが、実を言うとそれほどの驚きはなかった。ここ数日何かを 考えるようにどこか上の空だったのには気づいていたから、おそらく自分に言 いにくいことなのだろう。落ち込んでいる様子はなかったから、悪いことでは ないとは思っていた。 「ああ。親父の昔の知り合いのマジシャンが俺に誘いをかけてくれたんだ。業 界でかなり権威のある人で、その人に認められればFISMに推薦してもらえ るかもしれない」 「すごいじゃないか」 新一は目を丸くした。 「いつから行くんだ?」 「……五月のショーが終わったら、すぐに発つつもりだ」 急な話だ。もう二カ月ちょっとしかない。 「大学はどうするんだ?」 「今年度から休学する。いずれ退学するかもしれないけど」 「そうか……忙しくなるな」 快斗が黙ると、新一も自然と口を噤んだ。短い沈黙が流れる。 「……何年行くことになるか、わからない」 小さく頷く。 「正直言うと、新一についてきてほしいっていう気持ちはあるんだ。でも、オ メーが能力を活かせる場所は、少なくとも今は、フランスじゃないだろ?」 「ああ」 だから、と快斗は弱々しく微笑んだ。 「しばらく、離れなきゃならない」 「ああ……」 俯いて、指を組んで、解く。快斗は落ち着きなくその動作を繰り返した後、俯 いたままぽつりと「ごめん」と呟いた。 「何で謝るんだよ」 新一は苦笑して項垂れたままの頭に手を伸ばし、優しく髪を掻き乱した。 それからというもの、快斗は日に日に出発の準備やら後始末やらで忙しくなり、 その忙しさと比例するように目に見えて元気がなくなっていった。 一緒にいる時に何かを考えるようにぼうっとしていたり、食欲がなくなったり、 夜も寝付きが悪いようで、夜中に起き出してキッチンでホットミルクを飲んで いるのに出くわしたり。 今のところは平気なようだが、この調子ではいつかショーで大きなミスをやら かしかねない、と新一はハラハラして見守っていた。 快斗の様子は他の者にも訝られるほどで、博士は飲むと元気が出るジュースを 開発していると言っていたし、小さな科学者には「しゃきっとしなさい」と激 励を受けているのを見かけた。 ちなみに春休みを利用して東京に遊びに来た関西の探偵は、祝いと称して一升 瓶をあけた後、「一緒に来てや!って頼んだらええんとちゃう?」と軽口を叩 いて蹴られていた。 そんなふうにして、あっという間に三月が終わろうというある日の昼間。 警察からの要請もなく、依頼もない。快斗はボランティアのマジックショーを しに町内の老人ホームへ行っている。 要するに、新一は一人暇を持て余していた。 大して興味もわかない情報番組をBGMに、一度読んだことのある本を開いて いた新一の耳に、ふと、カタカナ読みのフランス語が入ってきた。52インチの 画面に目を向けると、宝石のように輝く色とりどりの果物が画面を彩っている。 「ふむ……」 新一は少し考える素振りを見せると、やがてローテーブルの上の携帯に手を伸 ばし、おもむろに電話をかけた。 「……あ、もしもし蘭か? 俺だけど、ちょっと頼みたいことが……」 *** 四月一日。 携帯のディスプレイに表示された日付を見て、快斗は溜息を吐いた。バス停で 前に並んでいた女性がちらりと振り返るが、気にしてられないほど余裕がなか った。 今日は二人が出会った記念日だ。 あれから四年。追いかけられて追いかけて、恋人という関係になって同棲する ようになった。あれもこれも全部、四年前の運命的な出会いがなければあり得 なかったことだ。 だから毎年この日は二人だけで過ごす約束だ。 今年も、忙しい中スケジュールを詰めて、用事は午前中に終わらせた。これか ら午後はまるまる、新一と共に過ごせる。 だというのに、米花町へ戻るバスに乗り込んでからも、快斗は浮かない顔をし ていた。 日付を見て溜息が出るのは何も今日だけじゃない。ここのところ毎日だ。意に 反してどんどん進んでいく日付に、新一と一緒にいられる日数がどんどん減っ ていく。しかたがない、時間は平等に流れている。 フランスに行くのは自分の夢のためであり、自分の意志だ。後悔はない。 それでもどうしても、新一と離れ離れになるかと思うと。 (駄目だこんなんじゃ) こんな情けない姿を見せたら、新一に怒られそうだ。落ち込んでいるのはとっ くに気がつかれているだろうけれど。 せめて今日は何も考えずにただ二人の記念日を思い切り祝おう、と快斗は、見 えてきた馴染みのある街並みに、気持ちを切り替えるように両頬を軽く叩いた。 「ただいまー」 「おかえり」 キッチンの方から新一の声がして、ちょうど昼時だと気づく。途端に空腹を覚 えた腹がきゅっと収縮した。 「昼まだだろ?」 キッチンから出てきた新一の手には、浅蜊の和風スパゲティーが二皿。 「ああ。サンキュー」 急いで手洗いうがいを済ませると、早速テーブルについて二人同時に手を合わ せる。 「「いただきます」」 言い終わるや否やフォークにスパゲティーを絡ませて、待ちきれないといった 勢いで頬張る。口の中に入れた瞬間、和風だしの香ばしさが広がって鼻に抜け た。 「ん〜!」 これぞ至福、といった表情で声を漏らすと、新一が苦笑している。 新一にしろ快斗にしろ、料理の腕前は人並みであって、それを生業にしている プロの料理人には当然ながら遠く及ばない。しかし新一がこうして快斗のため に作る食事には、ほかのどんな料理人も敵わない、愛情がこめられている。逆 もまた然り。 だから新一が拵えてくれたものは快斗にとって何にも代えがたい最高のもので あり、こうして二人で食べるのも大切な時間だ。 これが一気に生活からなくなってしまうかと思うと、浅蜊をつつきながら快斗 はまた悲しくなった。 そんな快斗の心境に気づいているのであろう新一は、相変わらず苦笑いを浮か べるだけで何も言わない。新一も同じように二人の生活を惜しんでくれている だろうか、うん絶対そうだ、と言い聞かせると、少しだけ気分が上向きになる のだった。 いつもの休日と同じように、けれどいつもよりも近い距離で、寄り添うように 午後の穏やかな時間を過ごす。これから長い時間離れ離れになるかと思うと、 今のうちに相手の存在を近くで感じていたいと思うのはお互い一緒のようだっ た。 テレビはつけない。電話線も抜いて、携帯の電源も落としてある。新刊の小説 も今日は閉じられたままだ。 出会ってからの思い出を、一つ一つ紐解いて語り合い、そんなこともあったな と穏やかに笑い合う。出会いからそれほどの年数は経っていないのに、新一と の思い出はそれぞれが濃くて、付随する思いはとても語りきれない。 時間はゆるやかに流れ、けれど気がつくと時計の針はすでに3を指していた。 「おやつにしようぜ」 新一が思い立ったように立ち上がる。 「3時のおやつ?」 「そう」 二客の空になったコーヒーカップを持ってキッチンに向かった新一のあとをつ いていく。 「お菓子買ってあったっけ?」 大抵甘いもの好きの快斗が、お菓子の缶にクッキーやらチョコレートやらを常 備しているのだが、ここ最近は忙しくて補充を忘れていた。 夜はレストランにディナーの予約を入れていて、デザートでケーキも出るだろ うからと、特にケーキを買うことはしなかった。新一もそれは知っているはず だ。 首を捻っていると、新一がやかんに水を入れて沸かし始めた。棚から、花柄が 美しい陶器のティーポットと、揃いのティーカップを二客取り出したのを見て 驚く。 「紅茶にするのか?」 「ああ」 てっきりコーヒーを淹れ直すものだと思っていたが、今度は紅茶の気分のよう だ。いくつかある紅茶缶の中から、アールグレイを選んだようだ。迷いのない 様子から、あらかじめ決めていたのかもしれないと思う。 快斗は珍しいな、と思いながらミルクジャグとシュガーポットの準備を手伝っ た。 「ケーキ皿頼む」 「ん?」 ケーキ皿? ケーキを買ってきたのだろうか、とますます首を捻りながらも、 言われた通り白いケーキ皿と細身のデザートフォークを出してリビングのロー テーブルに運んだ。 再びキッチンに戻ると、新一が機嫌のよさそうな笑顔で快斗に言った。 「冷蔵庫の中のやつ、持ってってくれないか?」 「冷蔵庫の中?」 そういえば今日は帰宅してから一度も冷蔵庫を開けていない。今思うと、そう させないように新一がさり気なく先回りして動いていたのかもしれない。 少しどきどきしながら冷蔵庫を開けると、真ん中の段に、アルミホイルで覆わ れた大きな皿が鎮座している。 「え、何だろう?」 出す前にアルミホイルを捲ろうとすると、「早く冷蔵庫閉めろよ」と新一の注 意が飛んでくる。なるほど、まだ開けるなということか。 皿を取り出すと、新一がポットを温めていた湯を捨てながら言う。 「崩れやすいからそのまま持っていけよ。紅茶は俺が持っていくから」 「開けていいの?」 「そっとな」 崩れやすいって何だろう、と想像を膨らませながら、慎重にローテーブルに置 いた。お許しはもらったので、ここは早速開けてみるべきだろうと、アルミホ イルを周りから慎重にはがしていく。 そして皿の縁から粗方離れたアルミホイルを、パッと捲って―― 「うわあああっ!!!」 絶叫した。 と、スリッパの足音がして、ティーセットを持った新一がリビングにやってき た。 「し、新一ぃぃっ!」 「何だ?」 しれっと言った新一の口元はしかし、完全にゆるんでいる。悪戯が成功して大 満足、という顔だ。 「あ、あああれ……!」 快斗はそれを視界に入れないようにしながら指差した。 「ああ、パイだ。今朝蘭に教えてもらいながら作ったんだよ。あいつパイ作る の得意だからさ」 蘭の手作りパイは快斗もご相伴に預かったことがあるから、それは知っている。 このパイだって、一目でわかるくらい良い焼き色で、カスタードクリームの上 に敷き詰められた苺は宝石のように美しい。 ただし、そのまるいパイの上下にヒレのようなでっぱりと、尾びれがついてい なければ、だ。おまけに一方向に整然と並べられた苺が、鱗に見えてしょうが ない。 「な、ななな、何で……」 快斗の魚嫌いは当然新一も知っていて、それをネタにからかうことはこれまで ほとんどなかった。人の弱みにつけ込んで面白がる真似はしない人間だ。 「何で、なぁ」 新一はふむ、と手を顎に添える。 いやそこ考えるところなの?!という快斗の叫びは喉が引き攣っていたせいで 言葉にならなかった。 「簡単に言うと、今日がエイプリルフールだから、だな」 「エイプリルフールって……嘘をついていい日だろ?」 困惑を隠せずに言うと、新一は溜息を吐いた。 「オメーがこれから行こうとしてんのはフランスだろ?」 「……うん?」 ますますこんがらがって首を傾げる。 「フランスじゃ、四月一日は子供が悪戯をしていい日。そんで、この魚型のパ イ、ポワソン・ダヴリルを食べる日らしいぜ」 「え……ええっ?!」 「だから毎年この日は、街中のケーキ屋のショーケースに魚型のパイが並ぶわ けだ」 「そ、そんなぁ……」 ショックを受けて項垂れる快斗に、新一は呆れたように言う。 「オメーなぁ、そんなんで大丈夫なのかよ」 「うぅ……」 「こんなにデフォルメされたやつでもダメなのか」 「だって……」 「しょうがねぇな」 新一はナイフでざくざくパイを切り分けると、ケーキサーバーで手早く皿に取 った。 「ほら、これなら普通のパイだろうが」 「うん……ありがと」 ピースだけを見れば、魚を連想するものは何もない。 ようやく甘くて香ばしい香りを吸いこむ余裕が出てきて、快斗はほっと胸を撫 で下ろした。 パイの味を邪魔しないやわらかな風味の紅茶と、サクサクした生地。さっきま での泣きそうな顔はどこへやら、幸せそうにパイを頬張る快斗を、新一が呆れ たように見ている。 そんな新一に、ありがとう、と快斗は心の中で呟いた。 この魚型のパイは、ただ快斗をからかうためのネタではない。表面的には本人 が言った通りエイプリルフールの悪戯のつもりなのだろうが、その奥には、き っと激励の意が込められているのだとわかる。 それも、快斗が最近ずっと落ち込んでいたからだ。 このままどんよりした空気で残りの日数を過ごすはめになるのを阻止するため に、そして遠い地で寂しがってばかりいては駄目だと気合いを入れるために、 新一なりに考えてくれたのだろう。新一だって、寂しいのはきっと一緒だろう に。 ――うん。もう大丈夫。 寂しさは拭えなくとも、新一がこうして応援してくれているのだ。代わりに、 FISMグランプリをとってくるくらいの心意気でなくては。 本当に、最高のパートナーを持って幸せだ、と立ち上る紅茶の湯気の中で笑み を零した。 ICPOに強いコネクションを作るために、新一がフランスの地にやってくる のは、その二年後のことだった。 遅刻した……と思ったら、去年も3日にupしてましたね。2日遅れがデフォ になりそうです。二度あることは(ry 定番な魚ネタですが、poisson d'avrilのことをテレビで知って、これは快新 で書かなければと、いてもたってもいられなくなりました。 邂逅おめでとう! 2014/04/03 |