3月31日、11:30pm。

ハイドシティホテル、屋上。



立ち入り禁止の屋上へのドアの鍵をちゃちゃっと解除して、新一は暗い
屋上へと降り立った。途端に襲いくる強い風に、目元に手を翳す。

だいぶ春めいてきたとは言え、深夜、それも強風吹きすさぶビルの屋上
ともなれば、思わず身体を竦めるほどに寒い。
冬のコートを持ってくればよかったと後悔しながら、新一は改めて辺り
を見渡した。


2年前。

ここで彼と出会ったあの日以来、新一がこの場所にくるのは2回目だっ
た。

1度目は、やはりちょうど1年前の今日。
新一は組織との戦いを終え、元の姿に戻ったばかりだった。
そして彼と、最後に会った日だった。






『よぉ』

この日の中継地点をこの場所にしたのは、彼も新一との出会いを特別に
思っていたからだろうか。
そうだといい、そう思いながら声をかけると、怪盗は驚いたように振り
返った。

『名探偵……戻ってたのか』
『ああ、最近な』

逆光で表情はよく見えなかったが、雰囲気からして嬉しそうに目を細め
ているようだった。

『おかえりなさい、名探偵』

その声色が思っていた以上にやわらかくて、新一は照れたように口ごも
った。

しかし次の瞬間、怪盗の雰囲気が変わった。

『さて―――』

怪盗はシルクハットを目深にかぶり直した。

『本当はお祝いでもしてやりてぇところだが……』
『キッド……?』
『俺も、どうやら決着をつける時が来たらしい』
『!』


怪盗が何かと戦っていたのは知っていた。
そしてそれが、命がけの戦いであることも。

『そ、うか……』

頑張れよ、そう言いたいのに何故か口が言うことを聞かなかった。

黙り込んでしまった新一をじっと見つめて、怪盗は静かに言った。

『……怪盗キッドは、もうすぐ死ぬ』

ハッと息を呑んだ。
目的を果たせば怪盗キッドはいなくなる、きっとそういう意味だったの
だろう。
けれど新一には、本当にこの男が死んでしまうような気がして、そして
この男がそれすら覚悟しているのだと気づいて、全身に震えが走った。

怖いのだ、と新一は気づいた。

自らも危険を顧みずに死地へ飛び込んでいくくせに、この男の命が奪わ
れるのは、ひどく怖いのだ。


『忘れろ、名探偵』
『キッ――』
『忘れるんだ』

強い声に、新一は何も言えなくなった。

生きていても、死んでも、この男はもう、新一の前には現れない。

これが永遠の別れなのだと、男の強い眼差しが言っていた。


『じゃあな。……幸せにな』


強い風が吹いて、目を瞑った一瞬の間に、キッドは消えていた。

消える前、キッドが泣きそうに見えたのは、見間違いだろうか。

答えを知ることは一生ない。











キッドが消えて、1年。

あの直後、引退を宣言したカードが中森警部のデスクの上で見つかって、
警視庁はもちろん、世間は騒然とした。
最後まで人騒がせな男だった。

その騒ぎも半年もすれば下火になり、怪盗が話題に上ることもなくなっ
た。

新一は補修と課題と事件とで息切れしながらも、先日高校を卒業した。


忘れろ、とあの日言われたから、新一は調べようとしなかった。怪盗キ
ッドの正体も、その後の消息も。


怪盗キッドは死んだのだ。



でも、結局、本当に忘れることなんてできやしなかった。

だから今日、怪盗キッドと出会った日であり、怪盗キッドが死んだ日で
もある今日、新一は再びこの場所に来たのだ。

キッドの素性も消息もわからない以上、新一にとってここは、キッドの
墓だった。

だから、今日ここに来たのも、一周忌に墓参りに来ているようなもので、
決して過去に縋りついているわけではないと自分に言い聞かせる。


彼との対決に決着をつけられなかったのが悔しいのでもないし、あの現
場の高揚感が名残惜しいのでもない。
ある程度の事情を薄々察してからというもの、彼を本気で捕まえようと
はしなかったのだから。

ただ、純粋に、抑えきれないくらいに、ひどく、そう――




好きだったのだ。




ぽろり、と涙がこぼれた。

どんなに悔しくても悲しくても、物ごころついてから泣いたことのない
自分が泣いているということに気づくまで、少し時間がかかった。
そして気づいてしまうと、もう止められなかった。

あとからあとから、溢れ出てくる涙はコンクリートの薄汚れた地面を濡
らした。身体を折って、嗚咽を押し殺した。

その感情は悔しさでも悲しみでもなくて、あえて名前をつけるなら、絶
望だった。


実は好きだったなんて、今更気づいたところで後に残るのはどうしよう
もない虚無感だけだ。
胸を締めつけるこの痛みは、切なさなんて可愛いものじゃない、もっと
暴力的に奈落へ引きずり落とす絶望だ。

そして彼の言葉が、より一層、呪いのように新一を突き落とすのだ。


『忘れろ』


「わ、すれられるわけ、ねぇ、だろが……」

新一は絞り出すように叫んだ。

「キ、ッドーーー!!」






ひときわ強い風が吹いて、不安定な姿勢だった新一はよろめいてコンク
リートに膝をついた。

風の音以外は静かで、無情な夜の闇に、新一は少し落ち着いて息を整え
た。

いつの間にかぐっしょりと汗をかいていたが、屋上は元の寒さを取り戻
していて、風が汗を冷やす。

感覚としては大した時間じゃないと思っていたが、腕時計の針は、ここ
に来てからすでに一時間が経過していることを示していた。日付もとっ
くに変わっている。

汗が乾いて熱を奪われる感覚に身震いして、新一は手をついて立ち上が
った。

いつまでもここにいて風邪をひいたら、隣の小さな主治医にまた怒られ
る。



その時だった。




ガチャ




背後でドアが開く音に、新一は勢いよく振り返った。

何か、予感があった。





「――あ、」



ドアを開けたまま驚いた表情で固まっているのは、黒いキャップを被っ
た青年。全身黒っぽい服装で、怪盗のかつての出で立ちとは似ても似つ
かない。

しかし新一の脳裏には、あの日の光景が過ぎっていた。

月夜の静寂を壊さぬように、静かに降り立った白い魔法使い――。

『よぉ、ぼうず』

『何してんだ?』



『おかえりなさい、名探偵』

『忘れるんだ』

『……幸せにな』



「っ、え、あ……」

意味をなさない音をこぼしたかと思うと、青年はハッとしたように踵を
返した。


「ちょ――待て!」

ドアがバタンと閉じた音に我に変えると、新一は走り出した。

慌ててドアを開けて階段の下を覗くと、青年はもうだいぶ下の方を駆け
下りていた。

「――のヤロっ!」

新一は三段飛ばしで危なげなく階段を駆け下りた。最後の方の階は、ほ
とんどひとっ飛びで駆け下りていた。
大人の身体では、脚力が上がったのと引き換えに体重的にきつくなった
が、コナンの時は軽く飛び降りていた高さだ。

「っ、俺の脚力なめんじゃねぇぞ」

着地の衝撃で痺れる足を無視して、新一はホテルの非常口から飛び出し
た。

道に出て見渡すと、数十メートル先でさっきの青年がちょうど路地に入
るところだった。
もう深夜だ、車通りも人通りもほとんどないのがラッキーだった。

「待てコラ!」

すかさず頭の中に辺り一帯の地図を展開する。
そして彼が入った入口ではなく、さらに2本向こうの路地に入る。さっ
きの男が自分の思っている通りの奴だったら、同じ道を単純に追いかけ
ていっても撒かれてしまう、ここは先回りすべきだ。

久しぶりの本気の追いかけっこに、懐かしい高揚感が蘇ってきた。

つきあたりを右に曲がって次は左、いやそれくらいは読まれているはず、
ここはさらに裏を掻いて真っ直ぐ、それから左に突き進んで――


「うわっぁ、」


別れ道に飛び出したところで、勢いよく人にぶつかった。
勢いを殺す間もなく派手に衝突したせいで、お互い後ろに吹っ飛ぶよう
に転んだ。

「い、っつぁー……」

どうやら勘は鈍っていなかったようだ。

いち早く立ち上がった新一は、落ちていたキャップを拾い、尻もちつい
たまま呻いている男に近寄った。

「あ……」
「ほらよ」

キャップを差し出す。

「あ、えと、どうも……」

受け取ろうと伸ばされた男の手を逆に掴んで、そのまま男の上に乗り上
げた。

「えっ?! ちょっ――」
「なんで……」
「――え?」

新一は俯いたまま言った。

「なんで逃げたんだ」
「え……」

男は戸惑っていた。そのことが余計に癇に障って、新一は男の手首を掴
む手に力を入れた。

「なんでっ! どうして逃げたんだよ! そんなにっ、そんなに俺に会
いたくなかったかよ?!」
「ちがっ」
「どうして! どうして、『忘れろ』なんて言ったんだ……!」
「…………」
「忘れられるわけ、ねぇんだ。そんなこと、できるわけねぇじゃねぇか
よ。だって俺は、俺は、お前のこと……!」
「……名探偵」

新一はハッと我に返った。

今、自分は何と言おうとした……?


「名探偵、ごめん」

力の抜けた新一の手をそっと振りほどくと、男は静かに言った。その手
首には、赤く掴まれた痕が残っていた。

「名探偵が俺のこと、っていうか今日の日のこと、覚えてるなんて思っ
てもみなかった。だから今日俺があそこに行ったのは、ただの俺のわが
ままだったんだ。俺なりに、何つーか、その、覚悟を決めるっつーか」
「覚悟?」
「あ、いや、その。……もう、名探偵に会うつもりはなかったんだ、俺
は」

目の前が真っ暗になった。

そうだ、そのための別れだったのだ、あれは。
たとえ死闘を生き抜いたとしても、もう会うことはないと、そういうこ
とだったじゃないか、最初から。
だからこそ怪盗キッドは死んだと、そういうことにしたんだったじゃな
いか、お互いに。

今更ショックを受けるのはお門違いなのに、新一は呆然として動くこと
ができなかった。

「でも、名探偵への想いは消せないから……だから、ずっと一人で抱え
ていく覚悟を決めるために、今日あそこへ行ったんだ」
「……え?」
「えと、ごめんな、こんなこと言うつもりなかったんだけど、あそこに
行って感傷に浸れば、ちゃんと覚悟できると思って……」
「……感傷に、浸る?」


新一は、今夜、あの場所で苦しい恋心を自覚して絶望に打ちひしがれて
いた。あんな胸が張り裂けそうな想いを抱えて、これからどうやって生
きていけばいいのかと、涙まで溢してもがき苦しんだ。

そう思うと急に、目の前の男が「感傷に浸る」などと軽く済ませている
のが、ひどく理不尽に思えてきた。


「め、名探偵?」

新一の纏う空気が変わったことに気づいたのか、男は狼狽えていた。

「てめー……俺がさんざん落ち込んだってのに……」
「は、はい?」
「感傷に浸って覚悟決めるだぁ? んなことしてる暇があるんなら、と
っとと俺を慰めに会いにこい!!」
「え……」
「俺は、お前が怪盗じゃなくなっても会いてぇし、お前が死んだと思っ
て生きていくのは死ぬほど辛ぇ。お前はそうじゃねぇのかよ。俺と会え
なくても平気なのかよ」
「そんなことない!」

急に大声を上げたかと思うと、目の前の男に下から抱きつかれた。

「うわっ」
「俺も、お前に会えないと死ぬほど辛ぇよ。……本当は、どうやって生
きていこうかわからないくらいに。覚悟決めるって言ったけど、そんな
自信、全然ないよ」
「キッド……」
「……でも怪盗キッドはもういないんだ。死んだんだよ」

低く呟いたその声が微かに震えている気がして、新一は言った。

「怪盗キッドは死んでねぇ。もう現れないかもしれねぇけど、お前が生
きている限り、お前ん中に生きてんだよ。お前が、怪盗キッドを一番終
わらせたくて、でも一番誇りに思っているお前が、キッドを殺すんじゃ
ねぇよ……」
「新、一……」

自分の胸に顔を埋めるようにして抱きつく彼が、泣いているような気が
して、新一はそっと背中に腕を回した。

「もう、お前の墓参りなんて二度と御免だ……」
「もしかして新一、泣いたの?」

覗き込むように見られて、涙の痕を撫でるように頬に手を添えられた。

「い、いや」
「ごめんね」

男は上に乗ったままだった新一をそっとどかし、立ち上がった。

「もう、勝手に消えない。死んだなんて言わない。だから、新一の傍に
いていいですか」
「お、おう……」

まるで告白のような言葉に、どもりながら答える。顔が熱い。

「俺は新一を愛してる。新一も同じだと思っていい?」
「あ、愛っ?!」
「泣くほど嫌だったんでしょ、俺に会えないの」
「あ、あれはっ……」

しかしいい言いわけが思いつかなくて、新一はため息をついた。心臓の
音がうるさい。

「……まずは、お前の名前、教えろよ」
「うん!!」

















〈fin.〉











バカップル誕生。




初稿 2012/04/01